小説

架空名義 1

 ざわざわと騒がしい居酒屋の奥まったテーブル席で、吉田浩一は同じ職場の久寺隆弘とビールを飲んでいた。
 日本全国に店舗をもつアパレル販売会社の新宿店に勤めるこの二人は、同い年という事もあり仕事帰りに酒を飲む機会も多い。
 このところ春の新作への入替え作業で残業続きだったため、今日は久しぶりに二人で飲もうと、会社近くの居酒屋に来たのだった。
 仕事帰りの居酒屋では、酒の肴は会社への不平不満と上司の悪口、と昔から相場は決まっている。最近の話題はもっぱら柴崎幸市のことである。
 先月のはじめ、表参道の本社から異動になって来た柴崎は、浩一や隆弘と同じ二十八歳の若さで店長代理である。会社のオーナー一族でイギリス留学の経歴から、英語は堪能、留学中にフットボールで鍛えた身体は、がっしりと絞まった筋肉のわりに細身の体型である。背も高く、ルックスも申し分ない。店の女の子たちは、いつも羨望の眼差しで柴崎を見つめている。同じコウイチでも雲泥の差であった。
「生、ふたつね!」
 隆弘はビールの追加注文をすると「おい、知ってるか?」と、皿に残った枝豆を突ついている浩一にいった。
「何を?」
「美沙絵だよ」
「彼女が、どうかしたのか?」
 二階フロアにいる二つ年下の美沙絵は、学生時代に雑誌のモデルをしていただけあって、新宿店では一番の容姿を誇る。当然、美沙絵を狙っている男性従業員も多く、彼女目当てに来店する客も少なくない。
「それがさ、洋子から聞いたんだけど、どうも柴崎とつきあっているらしいんだよ」
「美沙絵が?」
 同じ店に勤める隆弘と先月婚約した洋子は、来月いっぱいで退職し専業主婦となる。まだ公にはしていないが、洋子の妊娠で結婚を決めたと、隆弘は浩一にだけ言ったのだった。その洋子は美沙絵と同じフロアで働いている。
「よくやるよな」
「不倫、ってヤツか」
「いや、まだ結婚しているわけじゃないから、不倫にはならないんじゃないか?」

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架空名義 2

「それじゃ二股?」
「どちらにしても羨ましいやら、悔しいやら」
「お前には洋子ちゃんがいるじゃないか」
「そうだけどさ。そりゃ羨ましいだろう」
「そんなもんなのかな」
 美沙絵は確かにいい女かもしれないが、浩一はあまり興味がなかった。何かテレビか雑誌のなかの人間を見ているようで、どうも現実感が沸かないのだ。
「柴崎の婚約者っていうのも、かなりの女らしいぞ」
「見たのか?」
「洋子が退職の手続きでこのあいだ表参道の本社に行っただろう。その時に、柴崎と一緒に凄い美人が役員室から出てくるのを見たって。その女だよ、間違いないな」
「へえ」
「何だ、気のない返事だな」
 所詮は他人の婚約者である。柴崎が誰と婚約しようが、浩一には関係がない。
「でもそういうのはさ、終いには泥沼化してどっちかの女に刺されたりすんだよ。ほら、テレビの二時間ものでよくやっているだろう」
「三角関係の縺れってヤツか。それもいい気味だな」
 二人は他人ごとでありながらも、気持ちの隅では柴崎を羨ましく思い、嫉妬すらしていた。
 新宿からの帰り道、浩一は電車の中でぼんやりと中刷り広告を眺めていた。まだやっと二十歳を越えたばかりのタレントが、渋谷の何処だかに、何億円もする豪邸を建てたらしい。他の広告に目を移すと、どの週刊誌もその話題を書き立てているようだ。同じ渋谷でも、浩一の住む2Kの安アパートとは天地の差だ。
 自分はどうして、柴崎やこのタレントの側に属さないで、こちら側にいるのだろうか。毎日の生活に特別な不満はないが、何か人生に劇的な変化が訪れることはないのだろうかと、車窓を流れる街灯りを眺め、浩一は深い溜め息をついた——。

 恵比寿駅を出ると、高架になっている線路脇を渋谷方向へ戻るように歩く。お洒落な街として若者たちが訪れる恵比寿や代官山も、少し奥に入れば時代の波がそこだけを故意に避けていったかような、昭和の古い建物が点在する。

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架空名義 3

 その昭和の忘れ形見とでも言うべき二階建て木造モルタルのアパートが、永年住んでいる浩一の部屋である。
 古い建物であるが故に家賃も安く、近所の洒落たマンションに比べるとほぼ半値だ。それに何よりも浩一が気に入っているのは、猫の額ほどの裏庭にある桜の樹だった。今年も一昨日あたりから咲き始め、今週末には満開の見頃を迎えるだろう。自分の部屋での花見酒はまた格別だ。
 ふと気がつくと、山手線のガード下に小さな机と蝋燭が一本見える。近くに寄ってみると、机の前に占いと書かれた紙が貼ってあった。この場所は繁華街からは離れているので、夜になると人通りは少ない。ただ、昼間は慢性的に渋滞している大通りを避け、ここを抜け道として通る車も多く、交通事故が頻繁に起こる。昨日の夕方も、会社帰りの若い女性が死亡する事故が起ったばかりだった。
「こんなところで占いなんかやっても、客なんか来ないだろうに」
 机や椅子を置き去りにしたまま何処に行ったのか、占い師の姿は見えなかった。
「ほら、一人来た!」と、真後ろから声がしたので、心臓が飛び上がるほど驚いた。
 振り返ると、そこには昔話しにでも出てくるような、皺だらけの小さな老婆が立っていた。
「何だよ、びっくりするじゃないか」
 浩一は抗議の声をあげたが、ちょうど通りかかった電車の音にかき消されて、老婆の耳には入らなかったらしい。
「これを、買いに行ってたものじゃからの」
 けけけと無気味な笑い声をたて、老婆はミネラルウォーターの入ったペットボトルを掲げて見せた。
「そうかっかするものではないぞ。人生とは、この水のようにあらねばならぬ」
 ぽかんとしている浩一に、老婆はそう言うとまたけけけと笑った。
「それで、何を占って欲しい?」
「俺は占って欲しいなんて言ってないぞ!」
「それがいかんのじゃ。そうかっかするではない。ま、そこに座れ」
「だから、占いなんて信じないって」
「信じるかどうかは、お前さんの自由じゃ。いいから座れ」
 浩一の言う事には耳もかさず、老婆はけけけと笑う。

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架空名義 4

「俺、金持ってないから、一銭も払わないよ」
「誰も、お前さんから金なんか貰わん。ほれ、座れぇ」
 小さな机の前に置いてある折り畳みの椅子に浩一が座ると、老婆は机の上にボールペンとクレジットカードのようなものを出した。
「何だよ、これ?」
「見ればわかるじゃろう、会員証じゃ。裏に名前と住所を書けばよい。それと、電話番号も忘れずにな」
「いらないって。どうせ入会金だとか言って、金を取ろうと思っているんだろう?」
「お前さんも疑い深いのう。びた一文、貰らわんと言っておろうが」
 そう言われたところで、俄には信用し難い。この場では取られなくても、後から請求される場合も考えられなくもない。もしくは名簿屋に流され、毎日のようにダイレクトメールやら勧誘の電話がかかってくるのもご免だ。
 ——そうか。
 浩一は机の上のカードを見つめ、あることを思いついた。何も正直に自分の名前や電話番号など書くことはないのだ。
 そこで浩一は、柴崎の名前や住所を使うことにした。氏名の欄には柴崎幸市。それから、ぞろ目で覚え易いからと、居酒屋で隆弘が教えてくれた柴崎のマンションの住所と、携帯電話のメモリに入れてあった電話番号を書いた。
 二度とこの占い師のところには来ないのだし、どうせなら別の人物になってしまうのも一考である。それに柴崎の名簿データが流されたところで、浩一には痛くも痒くもない。それどこか、日頃から嫉妬を覚える相手だけに、爪の先程でも何かしらの優越感に浸ってみたかった。日々舞い込む雑多なダイレクトメールや勧誘の電話に、困り果てるの柴崎の顏が浮かぶようだ。
 ——これでよし。
 浩一はボールペンを置き、机の上で両手の平を広げた。
「何をやっておる」
「だって占うんだろ? 手相をみるんじゃないのかよ」
「誰が手相をみると言った」
「じゃあ人相か?」
「いいから黙って座っておれ」

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架空名義 5

 老婆に気押され浩一が口を噤むと、老婆は目を閉じ、口の中で呪文のような言葉を唱えはじめた。まるで寝言のような小さなくぐもった声で、浩一にははっきりと聴き取れない。
「あの……」
 何をしているのかと恐る恐る声をかけてみたが、老婆は目を開けない。
「なんだ、眠っちまったのか。年寄りはこれだからな」
 浩一が愚痴りながら立ち上がろうとしたその刹那、視界がぐにゃりと歪んだようにみえた。
 ——何だ?
 飲み過ぎたせいかと思い、早くこの場を離れて帰ろうとした。
「大人しく座っておれと言っておろう。お前さんは我慢がないの」
 何ごともなかったように、老婆は唖然としている浩一に言い放った。
「いや、飲み過ぎたかなと思って」
 それには応えず、老婆は話しだす。
「お前さん、自分の人生に何か劇的な変化がないかと望んでおるな」
「あ、ああ」
 その通りだった。特別な不満はないが、刺激のない毎日を嘆いているのは確かだ。それは何も、浩一だけに限ったことではない。社会の人々は、少なからず同じような思いを抱えて日々を過ごしているのだ。
 そういった思いや、明日への不安感があるからこそ、人は占いや宗教に希望の光りを見い出そうとする。身体の具合が悪いから、病院に行くのと同義だ。医者にも善し悪しがあるように、占い師にも同じことが当てはまるのではないだろうかと浩一は思った。テレビで見る有名な占い師や霊媒師も、浩一の目から見るとインチキ臭い。
「ほほう、わしを疑っておるな」
 不意を突かれた浩一は、返答のしようもなく口籠った。老婆はけけけと、まるで浩一の心を見透かしているかのようにまた笑った。
「まあよいわ。今日は特別に、お前さんの願いを叶えてやるとするが、あまり調子に乗るでないぞ」
「願い、っていったって……」
 何を言えばいいのか、浩一は具体的な願いを考え倦ねていた。
「さあ、用が済んだらさっさと帰るがいい。わしも忙しいでな」
「まだ、何も願いを言っていないぞ」

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架空名義 6

 一方的に呼び止めておいて、願いを叶えてやると言ったかと思えば、忙しいからさっさと帰れと言う。まったく身勝手にもほどがある。まだ、金を取られなかったのが唯一の救いではあるが、納得のいかないまま浩一はガード下を後にした。

 コンビニの前にある信号がちょうど赤色だった。この時間になれば車はほとんど通らないので、そのまま渡ってしまってもいいのだが、浩一は律儀に信号待ちをした。
 見るともなくコンビニの灯りを見ていた浩一は、老婆がミネラルウォーターのペットボトルを持っていたのを思い出した。きっとここで買ったのだろうと思い、先程のガード下を振り返ったが、そこにはもう小さな机と老婆の姿は見えなかった。
 浩一がここまで歩いてくるほんの数分のあいだに、あの老婆は机や椅子を片付けて、何処かに行ってしまったらしい。あんな場所では客も来ないので、駅前にでも移動したのだろうと思った。
 ちょうど煙草がなくなりそうだったので、ついでにコンビニで飲み物と雑誌も買った。店を出て煙草に火をつけて歩き始めたところで、後ろから若い女性の声がした。浩一は一瞬だけ振返ったが、知らない女性だったのでそのまま歩き出した。
 ところがその女性は、すぐ浩一を追いかけてきた。
「ちょっと、呼んでるのに!」
「何か?」
「まったく、人が呼んでるのに返事くらいしてよね。これ落としたでしょ。柴崎さん」
「シバサキ?」
 浩一はその女性が何を言っているのか理解するまでに、たっぷりと十秒はかかった。女性の差し出した手には、さっき浩一が書いた柴崎名義の会員証があった。どうやら、コンビニで財布を出した時に落としたらしい。その女性は、浩一にカードを渡すとさっさと行ってしまった。
 ——ああ、そうか。
 浩一は苦笑いと一緒に会員カードをポケットにしまった。自分が柴崎という別人になっていた事など、すっかり忘れていた。
 痴漢注意の看板が立つ薄暗い路地を抜け、アパートまでたどり着くと、浩一の部屋の窓から灯りが見えた。電気を消し忘れたまま出てしまったのかと考えたが、浩一の部屋の窓は東向きで、天気のいい朝方は眩しいくらいに陽が入るから、朝の出勤前に灯りをつけたままだったとは考えられない。それでも、きっと消し忘れだろうと軽く考え、自分の部屋の前でポケットから鍵を出そうとした時、内側から扉が開いた。

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架空名義 7

 突然自分の部屋から出て来た人間を見て、浩一はあっと声をあげたまま棒立ちになった。
「あ、いやだ、何よ、さっきのお礼なら何もいらないし、ストーカーなら警察呼ぶわよ!」
「その、そうじゃなくて、ここは……。何だ、どうなってるんだ?」
 部屋から出てきたのは、コンビニで会員カードを拾ってくれた女性だった。片手にはゴミ袋を提げている。
「何がどうだって言うの?」
「だって、ここは——」
「ここは私の部屋だけど、何か?」
「君の部屋?」
「そうよ。ほらちゃんと表札だってあるでしょ」
 彼女の指さすところには、吉田浩一ではなく、梶川礼子という名前があった。
「ちょっと待ってくれよ、ここは俺の部屋なんだ。何で君がいるんだ?」
「あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「ちょっと飲んではいるけど、おかしくはないぞ。ここは俺の部屋だ」
 玄関の狭い三和土から見える部屋は、浩一の見知ったものではあったが、窓のカーテンや置かれているテーブル等、いかにも若い女性が好むデザインや色合いのものばかりで、何一つ浩一のものではなかった。浩一は頭の中が真っ白になりながら、背中につたう汗を感じていた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「そうだ、免許証に住所が書いてある」
 浩一はこのアパートの住所表記がある免許証を、財布の中から出して礼子に見せた。
「名前は柴崎さんね。住所は……」
「違うってば。柴崎っていうのは嘘で——」
 浩一は慌てて、礼子の手に握られた免許証を覗き込むようにして言ったのだが、その言葉は言い終わらないうちに凍りついた。そこには柴崎の名前があり、住所も渋谷区広尾になっていた。しかも顔写真だけは、しっかりと浩一のものである。
「どうなっているんだ……」

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架空名義 8

「こっちが聞きたいわよ」
 浩一はここの住人であり、柴崎という名前は適当な嘘だった事などを礼子に話したのだが、まったく信用されなかった。ただ、悪意のない事や悪戯で言っているのではないのは、浩一の必死の形相から半分くらいは理解してもらえたようだった。
 玄関先でゴミ袋を持ったままの立ち話しも疲れるので、仕方なく礼子は話しの途中から浩一を部屋に上げた。
 軽い錯乱状態だった浩一は、礼子のいれてくれたコーヒーを飲んで少し落ち着きを取り戻そうとしていた。
「それで、どうするわけ?」
「どうするっていったって……」
「とにかく、その免許証に書いてある住所に行ってみたら?」
 免許証に書かれていたのは、柴崎が住んでいる広尾のマンションの住所であった。ここから歩いてもさほど遠くはない。全く知らない住所であれば、礼子の言うように行ってみるのも一つの選択ではあるが、結果が分りきっているだけに浩一は躊躇せざるをえない。
「ねえ、一緒に行ってみましょうよ」
 礼子は既に立ち上がって、出かける体勢に入っている。
「今から?」
「そうよ。あんた、今日はどこで寝るつもりなのよ。私のところには泊めてあげないんだからね」
 最悪の場合は何処か駅前のホテルにでも泊まるしかない。新宿まで行けばカプセルホテルなどいくらでもあるし、勤め先もすぐ近くだが、もう終電には間に合いそうもない時間だった。
 なかば引きずられるように、浩一は礼子とそのマンションにむかった。恵比寿から明治通り沿いに歩いて行き、広尾商店街の手前を折れ、表通りの喧噪とは無縁と思えるほどの静かな住宅地の一角にそのマンションはあった。
「へえ、凄いマンションじゃない。私もこんなところに住んでみたいなあ」
「べつに俺はここに住んでいる訳じゃないし」
「でも、免許証にもここの住所が書いてあったし、場所もちゃんと合ってるじゃない」
「それは、そうだけど……」
「ふうん。ま、いいから入ってみようよ」

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架空名義 9

 礼子は無邪気な歓声をあげながら、大理石のエントランスホールへと入って行った。
「まいったなあ」と、頭をかきながら浩一も後に続いた。
 大理石が貼り巡らされた瀟洒なエントランスには管理人室の窓があったが、昼間だけの在駐なのか、今は灯りも消えていた。深夜という時間帯のためか、二人の足音がやけに響く。
「ちゃんと、オートロックじゃない。うちのアパートとはわけが違うな」
 礼子はすっかり観光気分のようだった。
「で、ここの鍵は持ってないの?」
「あるわけないだろうが」
 浩一はそう言いながら、キーホルダーのついた鍵束を取り出してみた。すると、その中に見覚えのない鍵が一つあった。
「これは何の鍵だったっけ?」
「どれどれ。あ、この鍵じゃないの。ちょっと入れてみようよ」
 礼子は浩一の手から鍵束を取り上げると、それを扉の横にあるオートロックの鍵穴に差込んでみた。
「ほら、開いたわよ」
 モーターの唸る音とともに、目の前の自動ドアが開いていた。呆然と立ち尽くす浩一の手を引いて礼子は中へと入った。
「部屋の番号は?」
「え?」
 柴崎の部屋の番号までは、浩一も覚えてはいなかった。
「まったく、しょうがないな」と、舌打ちをした礼子は一度エントランスに戻り、ほんの数秒でまた戻ってきた。
「406ね」
「何でわかるんだ?」
「簡単なことでしょ。ポストの部屋番号を見てきたの。ちゃんとあったわよ、柴崎って」
「でも、他人の家だから」
「あんたの家でしょ」
「違うって!」
「じゃあどうしてここの鍵、持ってんのよ?」

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架空名義 10

「何でだろう?」
「分かった。あんた飲み過ぎて、何処かで頭でも打ったんじゃないの? それで軽い記憶喪失か何かなんだよ」
 礼子はすっかり持論に納得したようで、きっとそうなんだ、と浩一の後頭部に怪我の跡はないかと探してる。
「頭なんか打ってないって。本当に知らないんだよ」
「そう。まあ、部屋に入ってみればわかるでしょう」
「入るのか?」
「あたりまえじゃない。何しに来たのよ」
 主導権はすっかり礼子に握られているので、浩一はそれに従うしかなかった。四階でエレベーターを降り、四○六号室の前に立つと、礼子はインターホンを押した。扉のネームプレートには柴崎と書いてある。
「おい、誰かいたらどうするんだよ」
「誰かいればはっきりするでしょ、あんたが誰なのか。それともあんた、ここで独り暮らし?」
 こんな時間に会社の上司である柴崎を起こして、自分が吉田浩一である事を証明してくれと言ったところで、まともに相手にされないに決まっている。それどころか、社内での浩一の立場がおかしくなる可能性の方が高い。
 少し待ってから礼子はもう一度インターホンを押した。
「おい、何するんだよ」
「誰もいないみいたいだから、鍵を開けて中に入るのよ」
 礼子は言い終わらないうちに、先ほど浩一から取り上げた鍵を使って扉を開けていた。
「不法侵入だぞ」
「何言ってるのよ、あんた自分の家でしょ」
「だから、違うんだって——」
 浩一の言葉は全く耳に入っていない様子で、礼子は部屋の中へと入って行った。
「こんばんは、お邪魔します。どなたかいらっしゃいますか?」
 玄関先で中に入るのを躊躇していた浩一のところに、礼子が興奮ぎみに戻って来た。
「ちょっと、早く来なさいって。いいもの見つけたから」
「でも」

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架空名義 11

「ほら、まったく手間がかかるな」
 浩一は礼子に手をひかれ、不承不承といった体で三十畳はあろうかと思われるリビングに入った。礼子がつけたのか、静まり返った広いリビングには灯りがついていた。
 礼子は窓際に置いてあった写真立てを指さした。
「ほら、これ見てごらんって。これ、あんたでしょ」
 浩一は言われるまま、その写真を見た。そこには、お台場のレインボーブリッジをバックに、美沙絵の肩を抱いた浩一の写真があった。
「何だこれ?」
 浩一の記憶には、全く存在しない写真だった。若いカップルで賑わうお台場には、隆弘や洋子たちと一度だけ行った事があるだけだ。しかもその時、美沙絵は一緒に行っていないし、何処かで彼女の肩を抱いた写真を撮った覚えもない。美沙絵とは仕事上最低限の会話以外、めったに口をきかない。
「悪い悪戯だよきっと。合成写真だろう」
「あんたやっぱりおかしいわ。誰がそんな合成写真を飾って喜ぶのよ。この写真は、あんたがここの住人だっていう証拠でしょ。そして、これを飾ったのはあんた自身か、この彼女でしょ。それ以外に何か説明が付く?」
「それは……」
「赤の他人が、こんな合成写真作って飾る訳ないでしょ。そりゃそういう趣味の人もいるかもしれないけど、それならこれ一枚だけって事ないわよ。もっと沢山あるはずだし、だいたい素材にはタレントとか使うでしょ」
「そう言われれば、そうかな」
 礼子の言う通りだ。浩一の写真を合成したところで、何の得にもならない。
「だから、あんたはここの住人で、しかも他に同居者はいない。つまり独り暮らしってこと」
「何で独りだって分るんだよ」
「ベッドが一つしかない。他に住人がいれば、その分のベッドが存在するでしょ」
「ふうん。結婚とか同棲とか、しているかもしれないじゃないか」
「それは無さそうだね」
「どうして?」
「玄関には女物の靴はなかった。それと他の部屋にも、それらしき痕跡がない」

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架空名義 12

「へえ、まるでホームズだな」
 浩一は礼子の観察力に閉口するのと同時に、苛立ちを覚えていた。いちいち、言う事が的を得ている。たぶん礼子の言う通りなのだろうが、何となく面白くない。それにこの家の主人である柴崎が、何時帰って来るか分らないのだ。そうなれば、自分たちは間違いなく不法侵入で警察のお世話になる。当然のことながら会社も即日解雇。間抜けなワトソン君にはなりたくない。
「早く出ようよ」
 浩一は焦り始めたが、礼子はそんな浩一の気持ちにお構いなく部屋のあちこちを見て廻っている。
「どうして?」
「だって、不法侵入だぜ俺たち。ここの住人が帰ってきたらまずいじゃないか」
「誰も帰って来ないわよ。ここの住人はあなたでしょ」
「だから、違うってばさ」
 本来の主人である筈の柴崎が、何時戻って来るかという恐怖を背負いながらも、浩一と礼子は4LDKの各部屋を探索した。浩一の心配とは裏腹に、何故か自分の痕跡があちこちに見つかったのだった。
「で、納得したわけ?」
「やっぱり、よく分らないんだ」
「まだそんなこと言ってる。ね、コーヒーか何かないの? ワトスンくん」
 勝手に触ったらまずいよ、という浩一の言葉には耳をかさず、礼子はキッチンでごそごそと勝手に何かしている。
「あんた、正真正銘の記憶喪失なんだね」
「だから、違うって」
 浩一は礼子にそう言われる度に言い返すのだが、それもどうやら自信が揺らぎ始めていた。彼女のいう通り、もしかすると自分は本当に記憶喪失なのだろうか——。

 結局は眠れないまま広尾の部屋から浩一は出勤するはめになった。
 アクビを噛殺しながら倉庫の在庫確認をしていると、隆弘がやってきた。
「なんだ、こんなところにいたのか」
「ああ、何か用か?」

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架空名義 13

 昨夜、礼子はコーヒーを飲み終えると帰ってしまい、行くあてのない浩一は、仕方なくリビングのソファーでうつらうつらと朝まで過ごしたのだった。もし万が一、マンションの住人が帰宅したらと心配したが、それも杞憂に終わったのだった。
「美沙絵が探してたみたいだぞ」
「俺を?」
「そうだよ。他に誰がいるわけ?」
「そうか——」
 浩一と美沙絵の関係は、今さら疑う余地もない。マンションの部屋にあった写真が全てを物語っている。
 隆弘から少し遅れて洋子も入ってきた。
「柴崎さん、ここにいたんですね。美沙絵さんが捜してたわよ」
 洋子はそういうと、すぐに戻って行った。
「今、柴崎って言わなかったか?」
「ああ」
「それって俺の名前だよ——な?」
「当たり前だろ。お前の他に誰がいる。柴崎店長代理」
 浩一は言葉を失った。いつの間にか自分は柴崎幸市になっているようだった。今朝からどうもおかしいと思っていたが、浩一に対するスタッフ達の言葉使いがいつもと違う謎も解けた。
 ——本当に自分は吉田浩一ではないのだろうか。だとすれば、吉田浩一というのはいったい誰なのか。
「なあ、吉田浩一って知ってるか?」
「誰だ?」
「吉田だよ」
「さあ、知らないけど」
「そ、そうか。ならいいや」
「変な奴だな。そいつがどうかしたのか?」
「いや、何でもないんだ」
 浩一の態度に訝しみながらも、隆弘はそれじゃあと言って倉庫を出て行った。昨夜からのできごとは、もう浩一の理解を越えていた。

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架空名義 14

 ——自分の記憶の中にある吉田浩一という人間は、実在していないのだろうか。
 在庫確認を終え、二階のフロアに上がる階段の途中で美沙絵と出くわした。
「あら、やっと捕まえたわ」
「何か?」
「今夜、空いてる?」
「いや、ちょっと……」
 どうやら美沙絵は今夜、浩一の——正確には柴崎の——部屋に来るつもりのようだ。だが、本来の柴崎はどうしたのかという疑念も拭いきれてはいない。それとも礼子の言うように、自分は本当に記憶を亡くしていて、勝手に吉田だと思い込んでいるだけなのか?
「今日は、隆弘たちと約束があるんだ。明日じゃだめかな?」
「そう。じゃあ、明日ね」
 とりあえず思いついた嘘をいってみたが、美沙絵は別段怪しむ素振りもなく、浩一の言葉を信用したようだ。浩一に柔らい微笑みを向けて、弾むような足取りで階段を降りて行った。ふわりとした栗色の髪に、浩一の心臓はどくんと一つ大きな鼓動を打った。
 まだ自分の置かれた状況が、ごく一部しか把握できていないのだ。このまま美沙絵が部屋にくるのはまずい。
 浩一は何とか一日の仕事を終え広尾の自宅に戻ったが、まだ自分の部屋である実感がない。あちこちの引き出しを開けたりしながら、何とか現状を把握しようとしていたところでインターホンが鳴った。
 オートロックに慣れていない浩一は、急いで玄関のドアを開けたのだが、当然そこには誰もいなかった。狐に摘まれたような気持ちでいると、もう一度リビングからインターホンの音が聞こえた。慌てて取って返した浩一の目に飛込んできたは、モニター画面に映った礼子の姿だった。
「遅いじゃない、何やってたのよ」
 部屋に入るなり、礼子は不満げな声を浩一に浴びせた。
「オートロックって、慣れてないから……」
 他の女を連れ込んでいないか素早く確認した礼子は、両手に提げた袋をテーブルに置いた。
「はい、差し入れ。たぶん困っているんじゃないかと思ってね」
 浩一はまだ夕食を食べていなかった。昨日からの混乱にまだ整理がついていない為、食事まで頭が廻らなかったのだ。礼子は味の保証はしないといいながらも、浩一が部屋の中の探索を行なっているあいだに簡単な食事を作ってくれた。

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架空名義 15

「それで、何か思い出した?」
「全然だめなんだ」
 部屋の中は浩一の見知らぬ物ばかりで、まだ自分が柴崎であるという実感がなかなか湧かなかった。吉田浩一の記憶が、まだ頭の片隅で燻っている。
「そんなに慌てなくても、何かのきっかけで思い出すって事もあるでしょう。私がちゃんと面倒をみてあげるから安心していいよ」
「何だって?」
「一緒に暮らすわけにはいかないけど、何かあったら来てあげるからね」
「そりゃ助かるけど」
「遠慮はいらないって。何か楽しそうじゃない、こういうのって」
 礼子は面白がっているのか、すでに押しかけ女房気取りである。
「言っとくけど、セックスはなしだからね。女がちょっと甘い顔をすると、男はすぐつけあがるからね」
 そう言うと礼子はキッチンで片付けを始めた。何かを期待していたわけではないが、浩一は肩透かしをくらったような気分だった。
 礼子は手早く片付けを終えると、「それじゃあ、また明日ね」と軽い足取りで玄関にむかった。
「あ、ちょっと待って」
 明日は、美沙絵が来る約束になっているのを思い出した。何かの間違いかも知れないとはいえ、あの美貌とスタイルを手に入れる絶好のチャンスだ。礼子に来られてはまずい。
「明日はいいよ。ちょっと約束があるんだ」
 三和土のところで靴を履いていた礼子は、訝しげに顔をあげて「女でしょう?」と、言った。
「ち、違うって。そんなんじゃないってば」
 咄嗟の浩一の言い訳も、礼子には完全に見透かされていた。
「ま、いいか。それじゃ明日は来ないから。ちゃんと髪の毛とかシーツとか、綺麗に掃除しておいてよ」
 ふふふと思わせぶりな笑いを残しながら、礼子は玄関を出て行った。

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架空名義 16

 翌日、約束通りに美沙絵は浩一のマンションを訪れた。浩一が期待と不安ではち切れそうになる想いを胸にマンションに帰ると、ちょうど公休日だった美沙絵は、かなり早い時間から来ていたのか、ダイニングのテーブルにはもう夕食の支度が整っていた。
「あら、早かったじゃない」
 キッチンで洗い物をしていた美沙絵は、手を拭きながら浩一を迎えた。
「お昼の料理番組で美味しそうなサラダを紹介してたから真似してみたんだけど、久しぶりのお料理をだから味は保証できないわよ」
「へえ、美味しそうじゃないか」
 テーブルの上には、色鮮やかなサラダとワインのグラスが置かれていた。
「今、お肉も焼いちゃうから待っててね」
 美沙絵が弾むようにキッチンへ戻って行くと、浩一の心泊数は一気に跳ね上がったのだった。

 一ヶ月が過ぎ、浩一はすっかり新しい自分を手に入れていた。代り映えのしない吉田浩一の毎日から開放され、新しい人生を歩み出していた。職場では将来を有望視され、豪華なマンションに住み、休日にはそれだけで一軒家が買えるような高価なスポーツカーで買い物に出かけ、誰もが羨むような恋人とベッドをともにする。ついこのあいだまで自分とは無縁だと思っていた生活が、環境が、いま手の中にある。
 突然訪れた急激な変化に、始めのうちは戸惑い、悩み、眠れない夜もあったが、短時間のうちに浩一はそれを咀嚼し、自分のものにしてしまっていた。
 礼子の興味本意から来るのであろうの親切も、最初のうちは有り難かったが、ちょくちょくやって来ては、あれこれ世話を焼いてくれるのも鬱陶しくなりだした。ただ礼子はそれなりに気をつかってくれていて、美沙絵が来る日をうまく避けている。今のところ美沙絵も、自分以外の女の気配は感じていないようだった。何も疾しいところはないのだが、やはり礼子との関係はそろそろ終わりにしないと、美沙絵が何か勘繰り出してからでは遅い。
 久しぶりに休みがとれた日の昼下がり、礼子は安売りしてたから買ってきてあげたわよと、右手にトイレットペーパー、左手にはティシュペーパーの包みを提げてきたのだった。そういえば、どちらも残り少なくなっていたのを思い出した。やはりこの手の買い物は男には気が廻らないところだ。

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架空名義 17

「何か思い出した?」
「いいや、何かを思い出そうとするのはもうやめたんだ」
「そうなの?」
「うん。無理に思い出そうとしてもしょうがないし」
「そう」
 浩一はちょうどいいタイミングなので、君ももう来てくれなくていいと言おうとしたのだが、礼子はちょっとこれ片付けてくるねと、大きな包みを抱えてトイレに行ってしまった。
「今日はちょっと忙しいから、また来るね」
 浩一の心を読んだのか、礼子は片付けが終わるとそう言って帰ろうとした。
「あ、あのさ」
「何?」
「いや、いいんだ」
「そう。じゃあね」
 かろうじて玄関先で呼び止めたのだが、礼子の顔を見ると何となく気まずくなり、浩一は何も言う事が出来なかった。
 礼子が玄関から出て行くのと同時に、リビングの電話が鳴り出した。
「ただいまあ」
 聞いたことのない、若い女性の声だった。電話の向こうから、微かに空港の場内アナウンスのようなものが聞こえて来る。
「えーと」
 浩一が返事に困っていると、「あれ、冷たいんだ。シズカのこと忘れちゃったの?」と妙に明るい声が返ってきた。
「そんな事ないって。何処にいるの、空港?」
 何とか話しを合わせて、相手の素性を聞き出そうとした。
「当り、成田に着いたとこ。これから、そっちに行ってもいい?」
「え、まあいいけど」
「やったー。パパには適当に言っておくから、心配しなくてもいいよ。それじゃ、後でね」
 そこで電話は切れた。

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架空名義 18

 ——いったい誰なんだ? パパって誰の事だ?
 成田空港からここまでは約二時間。間違い電話であればいいが、もしそうでないとすると、これからやって来るという女性の素性を確認しておかなければいけない。部屋の中をあちこち探し、幾つかの写真を発見した。殆どが美沙絵や洋子たちと撮ったものだったが、その中に何枚か見知らぬ女性とツーショットで写っているものがあった。日付は二ヶ月前のもので、裏を見ると“¬¬静香—二十二歳の誕生日”と書いてあった。
 ——これだ。
 名前と年齢は分かった。しかし、彼女と自分がどういう関係なのか、そしてパパというのはいったい誰なのか。迷っている時間はない、もうすぐ本人がやって来る。浩一はすぐに隆弘へ電話をかけた。雑談の後、静香の話しを振ってみた。
「常務も心配していたみたいだからな、無事に帰って来て、よかったじゃないか。フランスやイタリアなら話しは分るけど、いくら卒業旅行でもエジプトは普通行かないだろう」
 岩倉常務の——娘。浩一は隆弘が話していた、表参道の本社で洋子が見かけたという女性の話しを思い出した。
「土産はピラミッドの石か?」
「いや、まだだよ。さっき成田から電話があったんだ」
「いいなあ、色男は。美沙絵には黙っておくから、こんど何か奢れよ」
「ああ」
 あの日居酒屋で、所詮は他人事と聞いていた話しが随分と昔のように思えたが、常務の一人娘を婚約者にもちながら、美沙絵とつきあっている自分が現実として此処にいる。
 ほぼ浩一が予想した通りの時間で、大きなスーツケースを引きずった静香が玄関先に現れた。リビングにあった美沙絵の写真は、クローゼットの奥に仕舞っておいた。
「ただいま」
 浩一は初対面の緊張から、やや上ずった声で「おかえり」と言ったまま、目の前にいる婚約者に見とれてしまった。写真で見るよりも遥かに美人だ。
「どうしたの?」
「美人だから、つい見とれてしまった」
 浩一は初対面の婚約者に、素直な自分の気持ちを贈った。無理に誤魔化したり、取り繕ったりしなかった事が効を奏したのか、嬉しいと言いながら静香は抱きついてキスをしてきた。

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架空名義 19

 夕日が、部屋の中を朱に染め始めていた。溶け合うように肌をあわせた後、時差による睡眠不足と長期旅行の疲労からか、静香は裸のままベッドで小さな寝息をたてていた。心地良くエアコンの効いた部家で、静香の規則正しい呼吸に同期して、夏用の薄い羽毛布団が微かに上下している。
 浩一はベッドから出ると、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを出し、半分程を一気に飲み干した。汗ばんだ身体に、水の冷たさが染み渡るようで心地いい。突然訪れた急激な変化に、短い期間で順応してきた浩一の生活。窓際に立ち煙草に火を着けた浩一は、紫煙のむこうに広がる暮れ行く都会を眺めながら、全身を駆け巡る充実感に酔っていた。
 一時間ほどで静香は目を覚まし、シャワーを浴びると二人で食事に出かけた。ここのところすっかり高級な店にも慣れ、以前のように安い定食屋に入ることも無くなったのだが、その吉田浩一としての記憶すら怪しくなりかけている。
 浩一にとっては初対面でも、静香にしてみれば久しぶりに婚約者との再会である。食事中も静香はよく喋り、浩一はひたすら聞き役に撤して状況の把握に努めた。以前からそうだったのか、あまり喋らない浩一を訝る様子は見られなかった。
 秋に結婚を控えた静香と、それを承知で肉体関係を結ぶ美沙絵。どちらも手放したくない浩一は、二人がバッテングしないよう細心の注意をはらっていた。美沙絵は最初から承知の上なのでさほど問題はないが、当然の事ながら静香はその事を知らない。もし静香に美沙絵のことを知られたら、常務の耳に入るのは必至だ。その場合、婚約者を失うだけではなく、職も失い、同時にこのマンションも追い出される事態に陥る。
 それは単純な疑問から発覚したのだった。ある日、水道光熱費の請求がない事に気付き、それとなく静香に探りを入れてみた。ある程度の予想はしていたものの、やはりマンションは岩倉常務の名義であり、月々の管理費や水道光熱費もそちらから支払われていた。車に関しても同じだったが、車検証の名義だけは柴崎のものであった。
 全てを失うかもしれないという緊張感が、麻薬のように浩一の神経を昂らせ、より深い溝へと入り込んで行くのだった。もう、後戻りは出来ない。このまま秋には静香と結婚し、それと同時に店長へと昇格する。その一方では美沙絵との逢瀬を重ね、彼女は恋人から不倫相手へと呼称が変わる。やがては訪れるであろう不倫の結末は、今は考えても仕方がない。いくら心配したところで、成るようにしか成らないのだ。例えどのような結末を迎えるにしても——。

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架空名義 20

 二ヶ月が過ぎ、浩一はすっかり柴崎の生活に馴染んでいた。
 いつものように隆弘たちと飲んだ帰り路、地下鉄広尾駅の階段を上りきったところで、暫く顔を見せなかった礼子とばったり遭った。
「何か思い出した?」
「あ、いや……」
「そう」
「もういいんだ、今の生活で満足しているから。前にも言ったように、過去に何があろうと、自分が何者であろうと、気にしないし、思い出さない事にしたんだ。だから、君ももう僕の事は放っておいてくれ」
 ずっと心の隅で引っ掛かったまま、礼子に言えなかった言葉が一気に溢れ出た。困っている浩一を親身になって助けてくれたのは、他でもない礼子なのは十分に承知している。だからこそ、なかなか言い出せなかった。しかし順調に生活が動き出した今、浩一にとって彼女の存在価値は微塵も感じられなくなっていた。それどころか、静香と美沙絵というふたりの危ない関係を保つには邪魔ですらある。いつ何どき、変な疑いをかけられるかもしれない。この生活を維持してゆく為には、災いの種になるようなものは取り除かねばならない。
 礼子は浩一をまっすぐに見つめたまま、身じろぎもしない。気まずい沈黙の後、「そう……」と礼子は一言だけ力無く言うと、背をむけて足早に商店街の方向に行ってしまった。薄情なようではあるが、これでいいと浩一は安堵の溜め息をついた。
 マンションに帰ると、美沙絵がちょうど風呂上がりの火照った身体に、バスタオルを巻いてバスルームから出てきた。今までは約束もなしに、美沙絵が来る事は決して無かった。それは自分の立場を弁え、浩一の立場を尊重しての事だと思っていた。事情を全く知らないのならまだしも、浩一の部屋でのはち合わせなど、言う迄もなく破滅的な行為でしかない。美沙絵はそれを十分に承知したうえで、浩一とつき合っている筈だった。今日は家に来るとは言っていなかったのに、何故にそんな危険を犯すのか——。
「お帰りなさい」
「家に帰ったんじゃないのか?」
「そのつもりだったんだけど、前から観たかったビデオがあったから借りてきちゃった。せっかくだから、一緒に観ようかと思って」
「電話してくれればよかったのに」

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架空名義 21

「そうね、今度そうするわ」
 リビングのテーブルの上には、店名の入ったレンタルビデオの青い袋があった。こんな時に静香が来たりでもしたら、と思うと浩一は背筋が寒くなった。つい美沙絵に対して、攻めるような口調になるのだが、意識的に無視しようとするのか、本人は気に留めていない様子である。
 それ以来、美沙絵が突然連絡も無しに、浩一のマンションを訪れる回数が序々に増えていった。何度注意をしても美沙絵はわかったと言うばかりで、改めようとする気配は全く見られない。それどころか、何処か意固地になっているようでさえある。浩一も美沙絵の行動を用心して、静香とは出来るだけ外で逢うようにしていた。多少の食事やホテル代は、最悪の修羅場を想定すれば安いものだ。
 
 先週末まで好天が続いていた東京の空も、梅雨入りの発表と同時に重たく憂鬱な曇天へと表情を変えた。
 静香との結婚を秋に控え、式場や披露宴の打ち合わせや確認、招待状の作成や引出物の手配など、浩一は忙しい毎日を過ごしていた。必然的に静香と一緒にいる時間が長くなり、仕事場以外で美沙絵と逢う機会は極端に少なくなって行った。
 いくら最初から承知している事とは云え、やはり嫉妬の念が芽生えてきているのか、美沙絵は浩一に対して、明らかに嫌みと思える言動が目立つようになった。浩一も暫くの間は、そんな美沙絵を慰めるように努めていたが、ここ数日の彼女は、ノイローゼ気味の暗い表情を全身に纏い、仕事中も常に何かに苛立っているような棘のある言動が多い。
 すっかり夏本番となった店頭の陳列棚や、飾り付けの備品類のチェックをしていた浩一のところに、困惑の表情をした隆弘がやってきた。
「どうかしたのか?」
「何が?」
 隆弘は目線で二階のフロアを指し示した。
「最近ちょっと美沙絵のようすが変だぞ。何かあったのか?」
「何もないけど、彼女がどうかしたのか?」
「どうもこうも、誰の目にも明らかにやつれてるし、苛ついている。さっきもバイトの女の子を怒鳴りつけて泣かしてたぞ。美沙絵はそんなことしなかっただろう」
「そのバイトの女の子が何か仕出かしたんだろう」

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架空名義 22

「そりゃ学生のバイトだから、多少のミスぐらいするさ。けど美沙絵の場合は、そのあたりの扱いが上手だったじゃないか。今まで怒鳴りつけて泣かすような真似はしなかったぞ」
 確かに隆弘のいう通りだった。これまでの美沙絵は後輩やバイトの指導が上手で、決して怒鳴りつけるような真似なしなかった。それ故か、男女を問わず年下から慕われ優しい姉のような存在であった。
 美沙絵の苛立ちの原因は、浩一の結婚にあるのだろうと容易に想像は出来た。しかし浩一にはそれを鎮める術がない。
 常務の娘という婚約者がいる浩一の立場を、十分に承知した上でのつき合いであり、それにもまして美沙絵は賢い女だ。何かとクレームをつけてくる客の扱いや後輩たちへの指導も、瞬時に機転をきかせ相手の自尊心をうまく誘導しながら、双方納得のいく解決策を導き出す能力に長けている。そんな彼女が、恋愛感情に振り回され苛立ちを露にしている。
 ——早めに別れておかないと、やっかいなことになるかもしれない。
 浩一の歩み始めた新しい人生にとって、未来への妨げとなるような事態は早期の発見と対処が必要不可欠であり、また何よりも最優先しなければならない。平凡な毎日から一転、せっかく手に入れた輝かしい人生を手放すような事にはなりたくない。
 悪意の種は発芽する前に除去するに限る。発芽した種が地中に根をおろしてからでは遅い。一度張り出した悪意の根は地下の暗闇を縦横無尽に奔り拡がってゆく。その根は善意という養分を吸い尽くし、また新たな悪意の実を落としながら増殖していくのだ。
 浩一は翌日の午前中に、二階の試着室で鏡を磨いていた美沙絵をつかまえた。午前中は客足もまばらで話しをするには丁度いいし、今日は午後から結婚式場に打合せ行かなければならない。
「ちょっといいかな」
 躊躇いがちにかけた浩一の声を無視するかのように、美沙絵は鏡を磨く作業を続けている。
「最近どうかしたのか?」
 作業に没頭しているかのように美沙絵は無言のまま手を動かしているが、心ここにあらずといった表情で、手はさっきから同じ所を往復している。
「——べつに」
 たっぷりとした沈黙の後、美沙絵は逃げるように試着室から出て行こうとした。

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架空名義 23

「ちょっと待てよ」
 浩一は美沙絵の腕を掴んでとめようとしたが、それを振りほどき「何よ」と言った彼女の声は、涼風を想わせるいつもの美沙絵のものとは思えないほど、梅雨空に低くたれ込めた雨雲のように、湿り気を含んだ重たいものだった。
「話しがあるんだ」
 浩一は叫ぶようにいった。
 美沙絵の瞳には精気がなく、その視線も虚空を漂ったまま何も見てはいなかった。まるで美沙絵の魂が抜け落ち、空っぽになった肉体に何かが取り憑いているかのようだ。
「彼女と別れて——」
 美沙絵のその声は、地の底から這い上がってくるような低い響きだった。
「え?」
「私と結婚して」
「今さら何を言っているんだ。そんなこと出来るわけがないだろう」
「お願い……」
 常務の娘という婚約者がいるのを承知の上で、これまで逢瀬を重ねてきたのだ。今さら自分と結婚して欲しいなどという言葉が、美沙絵の口から出るとは思ってもいなかった。否、その言葉は美沙絵の意志とは関係なく、彼女の肉体に入り込んだ悪霊が言わせているのだ。悪意の罠に嵌ってはならない。浩一はそう自分を納得させることで、冷静に対処しようとした。
「美沙絵だって、承知の上だったじゃないか。今になってそれは……」
「あなたにとって、私はいったい何なの?」
 常務の娘という婚約者のおかげで将来の出世を約束されながら、その一方で美沙絵と逢瀬を重ねていた。自分にとって美沙絵の存在とは? 
 浩一は返事に詰まった。
「日陰の女はいやよ」
 美沙絵はそういうと、微かなコロンの香りを残して階段を降りて行ってしまった。
 浩一は夕方から店を抜けて、式場となるホテルへむかった。いくつかの確認と打合せを済ませ、マンションに戻ったところで携帯電話が鳴った。着信を見ると隆弘からである。
「美沙絵と一緒か?」
「いいや、ひとりだよ。ちょうど今、家に帰ったところだ」

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架空名義 24

「そうか……」
「美沙絵がどうかしたのか?」
「それがさ、昼に出て行ったきり戻らなかったんだ」
「え?」
 そういえば、午後から美沙絵の姿を見なかったような気がする。昼間の一件もあり、浩一は嫌な予感を覚えた。
「どこに行ったかわからないのか?」
「そうなんだよ。誰も知らないんだ」
「他の店は?」
 何かの用事で、他の店鋪に行った可能性もある。
「それなら誰かに言うとか、ボードの書くとかするだろう」
 外出する時は、事務所のホワイトボードに、行く先や戻り時間などを書いておくのが決まりになっている。昼食で出る時も同じだ。
「携帯電話は?」
「だめ。電源が切れてる」
 とにかく探してみると、浩一は電話を切った。すぐに美沙絵の自宅へもかけてみたが、やはり留守録になっていた。
 ——何処へ行ったんだ。
 浩一は中目黒の美沙絵のマンションや、近くの商店街などを探し歩いてみたが、どこにも彼女はいなかった。
 中目黒駅で終電まで待ってもみたが、とうとう美沙絵の姿は確認出来なかった。念のため再び美沙絵のマンションに行ってみたが、結果は同じだった。
 まさか自殺や失踪ということはないと思うが、少し胸騒ぎがするのは否めない。だが、美沙絵も子供ではない。終電の時間に戻らなかったからといって、警察に捜索願いを出すわけにもいかない。どこかで呑んでいたりすれば、このくらいの時間に帰って来なくても不思議ではない。
 浩一や隆弘も終電が無くなる時間まで呑んで、タクシーで帰って来る事だってある。明日になって出勤して来なければ、もう一度マンションまで来てもいい。明け方近くに帰って、単なる二日酔いで寝込んでいるという事も考えられる。
 浩一はそう自分を納得させると、ちょうど通りかかった空車のタクシーに乗った。

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架空名義 25

 広尾五丁目あたりの明治通りでタクシーを降りた浩一は、コンビニで買い物をしてからマンションへと歩いていた。
 目の前にマンションの灯りが見えてきたところで、浩一はポケットから鍵を出した。その際にコンビニで貰ったおつりが道路に落ち、ちゃりんと乾いた音を響かせた。
 もうすぐ午前二時になろうとしているこの時間では人通りも無く、家々の灯りも殆ど消えてしまっていて足下はかなり暗い。
 前屈みになり落ちたコインを探していた浩一は、人の気配に顏を上げた。
 マンションのエントランスホールから漏れ出る灯りを背景に、女性の黒いシルエットが見えた。
 その女性は無言のまま浩一の方に歩み寄って来た。
「どうしたんだ、こんな時間まで——」
 浩一は僅かな灯りの中で見えた表情を亡くした能面のようなその顏と、手に握られたナイフに言葉を失った。
「許さない……」
 囁くような声がした。
 脇腹にひやりとする金属の冷たさを感じ、浩一は路上に倒れた。急激に薄れていく意識の中で、彼女のコロンの香りが微かに浩一の鼻腔に届いた。

 遠くで蝉が鳴いている。全身にかなりの汗をかいているのがわかった。
 ——暑い。
「うわっ」
 浩一は目をあけると勢いよく身体を起こし、刺された脇腹に手をあててみる。
 しかし、そこにはナイフで刺された傷もなければ痛みもない。
「どうしたんだ? 夢だったのか?」
 ひとりごちてみたものの、寝ているあいだの夢にしては現実感がありすぎた。
 遮光カーテンの隙間から、真っ白な夏の光りが細長く射し込んでいる。部屋の空気に違和感を覚えながら、ベッドから立ち上がろうとした浩一は、もう一人、自分の横に寝ていた人間の気配に振り返った。
「しず……」
 白く滑らかな肌が、タオルケットからのぞいていた。

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架空名義 26

「起きたの?」
 髪をかきあげながら静香は起きあがった。
「どうしてここに?」
 昨日までは婚約者だったはずの彼女だが、それも夢のなかのできごとだったのかもしれない。なぜその彼女がここにいるのか? 
 夢と現実が互いに重なりあって曖昧になってしまっている。
「いやだ、まだ寝ぼけてるの?」
 静香はクスッと笑いながらキッチンへ歩いていった。
 その背中に「ああ」と浩一はなま返事をした。
 目が覚めると、となりに静香がいるのにも驚いたが、もうひとつ、あまりにも見慣れた部屋に自分がいることに戸惑った。
 浩一が目覚めた場所は、永年住んでいた恵比寿のアパートの部屋だった。目覚めたときの空気の違和感はこれだった。昨日までいた広尾のマンションとは違い、どこか懐かしい空間。それはしばらく離れていた故郷の家へ戻った時の、あの開放感と安心感に似ている。
 あの老婆と出会ってからというもの、急激な生活環境の変化に対応するべく、浩一の神経は常に張り詰めていた。その緊張の重荷から解き放たれて、身体が軽くなったような錯覚さえする。浩一は事態がつかめずに、しばらく呆然としていた。
「どうしたの?」
 いつの間にかシャワーを浴びてきた静香が、エアコンをつけた。涼風が汗ばんだ肌に心地いい。
 時計をみると、まだ朝の七時だった。
「——どうして俺はここにいる」
「いやだ、変な夢でもみたの?」
 静香は笑っている。
 ——夢?
 いや夢ではない。確かに昨日までは柴崎幸市としての日々を送っていた。そして昨日の深夜、浩一は広尾のマンションの前で刺されたーー筈だった。脇腹に感じたナイフの冷たさが急に蘇り、浩一はあらためて自分の脇腹を見たが、血が流れているどころか刺されたような傷跡すらない。
 ——いったい、どうなっているんだ?

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架空名義 27

 また吉田浩一に戻ってしまったのか。それとも静香の言うように、ただの夢をみていただけなのか?
 夢であれば、もっと現実感のない記憶の断片が重なり合い、映画のスクリーンの上を漂うようなものである筈だ。昨日までの生活はあまりにも実感がありすぎる。
 静香がここにいるのも不思議でならない。あれこれと想いを巡らせ、様々な可能性を考えてみたものの、記憶の迷路からの出口は見つけることはできなかった。
 どこか身体の調子でも悪いのかと静香は心配してくれたが、浩一は「大丈夫だから」というのがやっとで、他にはうまく言葉がでなかった。
 まるで梅雨空を被う雲のように、すっきりとしない気持ちのまま、静香を部屋に残したまま仕事場へとむかった。
 浩一が出勤するのを待ち構えていたかのように、興奮ぎみの隆弘がすぐに話しかけてきた。
「聞いたか?」
「何を?」
 自分の身に起った事態すらのみ込めずにいるところへ、また何かが降り掛かってくるのだろうか?
 浩一は少し身構え、彼の表情から少しでも何かを読み取ろうとして、隆弘の顏を観察した。
「そんなに恐い顔するなよ」
「ごめん、そんなつもりはないんだけど……」
 まあいいかといって隆弘は顏を綻ばせた。その様子から察するには、自分に関係する要件ではないらしい。浩一はひとまず安心した。
 二人きりで話そうと、隆弘は浩一の腕をつかんで外にでた。
「柴崎がさ、刺されて入院したって」
「えっ?」
 隆弘が口にした言葉の情報は、浩一の耳から脳へと届いてはいたが、その処理方法が見当たらなった。そのため隆弘の言葉は、脳の情報処理回路の中で留まったままになってしまい混乱を始めた。
「し・ば・さ・き」
 浩一は無意識にその名を口にした。それは条件反射的に、異物として認識した脳の防御回路が、強制的に排出したようでもあった。

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架空名義 28

 今朝になってなぜか突然、吉田浩一に戻っていたが、昨夜マンションの前で刺される瞬間までは、自分は確かに柴崎として生きていたのだった。いったい静香や隆弘たちにはどう映っているのか。昨日から今日へと移りゆく時間の中で、彼らの中で何か矛盾するものはないのだろうか、と辛うじて停止していない部分の脳が反応を示した。
「俺は柴崎じゃないよな?」
 浩一は何よりもそれを確かめずにいられなかった。
「はあ? お前どうしたの? 自分の名前を忘れたのか?」
 怪訝な顔をする隆弘。
「いや、ちょっと確かめてみただけだ」
「確かめるもなにもないだろう。漫才でもはじめるのか? お前は俳優でも歌手でもなく、ただの吉田浩一」
 そういって隆弘は笑った。
 ——やはり元に戻っている。だが少しづつ何かが違うのは何故だ?
 まだ納得できない浩一にはかまわず、隆弘は話を続けた。
「ほら、昨日の午後から美沙絵が行方不明になっただろう。どうやら柴崎のマンションの近くで待ち伏せをしていたらしいぞ。夜になって帰ってきた柴崎をグサッ! とやっちまったらしい」
 浩一は全身の感覚が麻痺したような衝撃の中で、軽い目眩を覚えた。近くにあった椅子に縋り付くように座ると、自分の意識とは関係なく膝が小刻みに震えていた。
 まさに昨日までの自分のことである。人からいわれなくても十分に承知している。
 やはり昨日の夜、美沙絵に刺されたのは柴崎幸市として人生をおくっていた自分自身だったのだ。刺されたとき、いつも美沙絵がつけているコロンの香りがしたのを覚えている。
 しかし刺されたのは本物の柴崎のほうで、この自分はこうしてここにいるのは何故だ?
 浩一にはさっぱりわけがわからない。
「おい、大丈夫か? 顏色が悪いぞ」
「あ、ああ」
「帰った方がいいんじゃないのか?」
「いや、大丈夫だ。少し外の空気を吸ってくる」
 閉ざされた店の空間の中では、息がつまりそうだった。心配する隆弘の声を背にうけながら、浩一はふらつく足で外に出た。とにかく新鮮な酸素を脳細胞に送り込まないと、止まったままの思考回路が働かない。

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架空名義 29

 状況の把握が不完全なまま、何とか一日の仕事を終えた。自分が自分でなことを除けば、仕事はいつも通りにこなすことができた。
 少し風邪ぎみだからといって、いつもより早めに店をでた。
 釈然としないままどこをどう歩いたのか、ふと気が付くと恵比寿のアパートの前にいた。街を朱に染めた夕日も、その役目を終え静寂な闇に沈みかけていた。わけもなく苦笑いをした浩一は、一つ大きな深呼吸をするとアパートの階段を上った。
 扉の前に立ちネームプレートを確認した。そこには紛れもなく吉田浩一の名前があった。今朝、この部屋を出るときにも確認したが、やはり不安だった。もしも、あのときのように他の名前があったら——と。
 ——礼子。
 浩一の脳裏に突然、彼女の名前が浮かび上がった。しばらく姿を見なかったが、彼女は今、どうしているのだろうか。夢ではなかったとすれば、浩一が柴崎として生きていたとき、礼子はこの部屋に住んでいたのだ。浩一が元に戻ったことで、今度は礼子に何かが起きている可能性もある。
 あの時、途方にくれていた自分を、助けてくれた恩を忘れてはいない。今度は自分が礼子を助けなければならない。
 ——とにかく彼女を捜してみよう。
 宵闇に包まれた街を、浩一は礼子を捜して歩いた。彼女を見つけることで、この不可思議な現象を解き明かす糸口が発見できるかもしれない、と浩一は考えた。そして、彼女がしてくれたように、出来うる限りの手助けをしてあげなければならない。
 近くの飲食店やゲームセンター等、片っ端から覗いてはみたが、ついに礼子を見つけることは出来なかった。仕方なく駅からいつもの道をアパートに帰ろうかとした浩一は、コンビニの灯りを見てふと空腹を覚えた。そういえば昼も食べていなかったのだと思い出し、何か買って帰ろうと店の方に歩きだした。
 道路脇の高架を山手線が通り過ぎて行った。時計を見ると、すでに日付がかわっている時間だった。
 ——今のが終電かもしれないな。

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架空名義 30

 そう思いながら目線を戻した浩一の視界に、思いがけないものが映った。
 山手線のガード下。そこには、あの時と同じように小さな机と老婆の姿があったのだった。
「あっ」と、思わず声が出ていた。
 老婆のところに駆け寄った浩一は、動揺と興奮のあまり、すぐには言葉が出てこなかった。
「お前さんか。そんなに興奮せんと、まあ座れ」
 あの時のように、淡々とした妙な命令口調は変わっていない。
「あの娘なら、捜しても無駄じゃよ」
「えっ?」
 またもや、浩一の心の中は完全に老婆に読まれていた。
「何でそれを……」
「お前さんと同じなんじゃよ」
「俺と?」
 浩一にはさっぱり理解出来なかった。自分と同じ、とはいったいどういう事なのか?
「その顏では、わかっておらんようじゃな。あの娘は、元の世界に戻ったんじゃよ、お前さんと同じようにな。ただしお前さんの場合は、少しズレて戻って来てしまったがな」
 老婆は以前と同じように、けけけと無気味な笑い声をあげた。
「元の世界って何だよ?」
「そう急かすでない。お前さんがわしのところへ来る前の日、ここで若い女性が亡くなったのを知っておるかな?」
「交通事故で?」
 最初に老婆と会った前の日、確かにこの場所で、若い女性が死亡する交通事故があったのを浩一は記憶していた。
「見かけによらず、なかなかもの憶えがいいのう。お前さんの手伝いをするために、あの娘はわしが呼び戻したんじゃ。もう、あっちの世界に帰ってしまったがな」
「何だって?」
「それよりもお前さん、自分のことが訊きたいのじゃないかね?」
 確かに老婆の言う通りだ。彼女のことが気掛かりだったのは嘘ではないが、本当に知りたいのは自分自身のことだった。

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架空名義 31

「お前さんの願いを叶えたまでのことじゃ。つまらん人生に劇的な変化を求め、くだらん優越感に浸りたがっておったろう、それも別人になって」
 確かにあの日、心のなかを読まれてそう言われた。
「確かにそうだけど……。じゃあ何故、元に戻ったんだ。それも少しズレて?」
「有効期限が切れたんじゃよ」
「何だそれ?」
「ほれ、会員証をよく見てみろ」
 浩一は財布の中にあった会員証を出した。
「ほれ、そこに有効期限が書いてあるじゃろ」
 蝋燭の薄暗い灯りに会員証をかざし、老婆の指さすところに目を凝らすと、そこに小さな文字が並んでいた。

 『有効期限/発行日より三ヶ月後の午前二時まで』

 ——ちょうど、三ヶ月だったのか
「わかったじゃろう。期限が切れたから元に戻っただけのことよ」
 愕然とする浩一にはおかまいなく、老婆はけけけと笑い声をたてた。
「それじゃ、ズレて戻ったというのは?」
「何故、期限が午前二時になっているかわかるかの?」
「草木も眠る丑みつどき、だから」
「ほう、なかなかやるのう。その通りじゃ。寝ているあいだに元に戻るのが、一番いい状態なんじゃ。起きている時に期限が切れると、ちと問題が発生する」
「どんな問題が起きるんだ?」
 勢い込んで、浩一は身をのり出した。
「お前さんのように、元の世界とは少しズレたところに戻ってしまう場合がある。お前さんも、もう少しで死ぬところじゃったが、今の生活でも十分に満足じゃろう」
「どうしてそれを……」
 美沙絵を捜したが見つからず、広尾のマンションに戻ったところで、ナイフを持った彼女に刺された——。
 あの時のナイフの冷たさは、今でもはっきりと脇腹に記憶している。しかし目を

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架空名義 32

覚ましたときには、何故か元の自分のアパートにいた。
「そうか。あの時がちょうど午前二時だったんだ」
「納得したら帰るがいい。わしも忙しいでのぅ」
「ちょっと待ってくれよ。まだ……」
 浩一の言葉が終わらぬうちに、老婆の姿はすうっと消えてしまった。立ち上がってあたりを見回したが、もう一度振り返った時には、机や椅子と一緒に会員証も消えていた。
 ひと気のない深夜のガード下に、老婆のけけけという無気味な笑い声が微かに聞こえた。
                                        

                            (了)

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