福音
高校3年の夏休みーー。
「広島へ引越すの……」と彼女は寂しそうに言った。
「そうなのか……」という言葉しか出なかった。
彼女は繋ぎ止めて欲しかったのだ。行くなと言って欲しかったのだ。
初めて訪れた広島の街並を眺めながら、平和記念公園へと向かった。原爆ドームを後方に臨む慰霊碑の前に立つと、『過ちは繰返しませぬから』という石棺の碑文が語りかけるように心に響いてきた。
夏の照りつける日射しを見上げハンカチで顔の汗を拭った時、耳の奥に微かな音が聞こえた。遠い記憶のなかに刻み込まれた音。
ゆらゆらと揺れる陽炎の中を独りの女性がこ
ちらに向かって歩いてくる。
彼女の歩くリズムに合わせて聞こえて来る鈴の音。確かにあの鈴の音だ。あの日、別れ際に彼女がくれたお守りの鈴の音。
茫然自失として音の主を見つめる自分との距離があと数歩というところで、彼女の足が止まった。息を呑んで立ち止まった彼女の持つバッグには、あのお守りが付けられていた。まるで時間が止まったかのように、お互いの顔を見つめ合ったまま長い沈黙が流れた。少女から大人の女性になっても澄んだ瞳の輝きはあの日のままだった。
長い時間を経てようやく再会した彼女をもう離しはしない。あの時に繋ぎ止められなかった悔しさを忘れはしない。そう心に呟いて彼女の瞳をじっと見つめた。
——過ちは繰返さない。
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