迷探偵がゆく 01
玄関の扉をあけると、真夏の茹だるような熱気と蝉時雨が襲いかかってきた。エアコンの効いた部屋に戻りたくなる気持ちをぐっと抑え自転車にまたがる。サドルやハンドルはすでに火傷しそうなほど熱くなっている。
強烈な日射しはハンドルを握る腕をジリジリと焼き、Tシャツをすり抜けて背中まで日焼けしそうだ。きっと裕子だったらシミができちゃうとか何とかいうだろうな、と思いつつペダルを漕ぐ。
フレームの鮮やかなメタリックブルーのグラデーションが陽射しに輝く。そんじょそこらの自転車とはわけが違うのだ。
乗ったことはなくても、名前を言えば誰でも知っているヨーロッパの高級自動車メーカーが作っている自転車で、同じようなデザインの国産自転車とはゼロの桁が一つ違う。今年の春、高校の入学祝いとバイトで稼いだ金を足して買った自慢の愛車だ。
今やすっかり本牧のランドマーク的な存在となった複合型巨大ショッッピングセンターの駐輪場に愛車を停める。大切な愛車が盗まれないように、駐輪場の街灯の柱にチェーンをかけてロックする。
この辺りの商業施設は、ちょうど自分が生まれたころに米軍の跡地を再開発してできた新しいものらしいが、もの心がついたときには既にそこに(、、、)存在していたという意味では、それが三渓園であろうが富士山であろうが同じだ。歴史の新旧は関係ない。
冷房の効いた店内に入ると、一直線にエスカレーターを目指す。目的のフロアで降りるころには汗を吸ったTシャツが冷やされて、ぺたぺたと肌にくっつくのが気持ちいいやら悪いやら。
「よ、ジュリー」
ゲームソフトの売り場にいる裕子の兄、榊原公隆が屈託のない笑顔で迎えてくれた。
俺は子供のころから、ある年代以上の人には必ずといっていいほどこのニックネームで呼ばれる。あまり好みではないのだけれど、「澤田研司」という名前が往年の大スターを連想させるらしい。まったく関係のない俺には迷惑な話だ。
——字は違うんだけどな。¬
背中にパラシュートもしょっていなければ、帽子をかぶってバーボンのボトルを持っているわけでもない。いうまでもないが、指先の出た手袋をした婆さんに毎日拝まれるのはゾッとしない。
うちのアホな親父が、自分が若い頃に憧れていた芸能人の名前をつけたがり、生まれてくる子が女の子なら「アヤコ」、男の子なら「ケンジ」と決めていたそうだ。
ファーストネームだけならごく普通の呼び名であるけど、どちらもファミリーネームの澤田姓がつくと、どうしても有名芸能人の顔が浮かんでしまうのはいかんともし難い。
それでも、世間を震撼させたような犯罪者や、お笑いタレントと同じ名前でないだけ幸運だと思うことにしている。
「はい、これ」
カウンターの上にだされた新作のゲームソフトを見て、安堵と興奮が同時にわき上がる。すかさず俺は、ポケットからくしゃくしゃになった五千円札をとりだす。
五月の連休明けに予約を入れてから三ヶ月近く、待ちに待ったシリーズ三作目のRPGソフトだ。当初の発売予定は夏休み直前だったが、発売前になってソフトに不具合が見つかったらしく、結局は二週間発売が延期された。
夏休み中にこのゲームを攻略するべく、綿密な計画を立てていた日本中の学生たちは肩すかしを食らった。いや、何も学生だけとは限らない。社会人のなかにも以外とゲーマーは多いのだ。
「平成の語り部」といわれる大物女性作家も、一年のうち三百六十日はコントローラーを握っているというとてつもないゲーマーらしい。RPGのゲームをそのまま小説にしたようなものまで書いていて、それがかなりの部数売れているらしいのだが、小説に興味のない俺にはどうでもいいことだ。
「ちょっと時間あるか?」
商品とおつりを引ったくるようにして帰ろうとした俺に、何か周りを伺うような視線を奔らせながら公隆さんがいった。
——一秒でも早くうちに帰りたいのに。
将来は義理のお兄さんになるかもしれない人だから、心証を悪くしないようにしなければいけない。
「何か?」
「いや、ちょっとここでは……。周りの目、いや耳があるからな」
思わせぶりな公隆さんの言葉に、「げ、キスしたのがバレたか?」と瞬間的に思ったが、平静を装うことに神経を集中させた。
——まさかうちの妹を傷物にしたとか、責任取れとか言わないよな?
「裕子、のことですか?」
背筋に冷たいものが伝う。
いくらお嬢さま育ちだからといって、キスしたくらいで幼気な高校生に責任取れとか言われても、彼女を養うだけの経済力は今の俺にはない。
「そうじゃないんだ。ちょっと相談したいことがあってね」
——どうも違うらしい。
安心したところで、脇の下から汗がどっと噴きでる。
裕子とは歳が十歳ほど離れているせいか、公隆さんは妹をまるで我が子のように可愛がっている。目に入れても痛くない、という例えがわかるような気もする。
先月だったか、ちょっとした事件があった。
公隆さんが何か探し物をして裕子の部屋に入ったところ、彼女は着替えの真っ最中だったそうだ。下着姿の妹にヘアブラシを投げつけられて、すぐさま追い出されたらしい。
公隆さんは「それから二、三日は口をきいてくれなくて困ったよ」とブラシをぶつけられたおでこを摩っていた。いくら溺愛している妹でも、痛いものはやはり痛いらしい。
——おでこにタンコブくらいで済むなら、俺が替わってあげたのに。
「昼休みに一階で待っていてくれないか?」
ハンバーガー二つにバニラシェイク、それにポテトのLサイズという条件を目の前に突きつけられてしまっては、気持ちよく尻尾を振るしかないだろう。
けっして食べ物に釣られたわけではない。義理の兄になろうかという人の頼みをきかないでは男が廃るというものだ。『義を見てせざるは勇無きなり』という、先人の言葉もあるではないか。出典は論語だったか? 上杉謙信の言葉じゃないよな?
難しいことはさておき、公隆さんの昼休みになるまで、あと一時間半をどうするかが問題だ。外の熱射地獄には行きたくないので、エアコンの効いた店内でもプラプラしながら時間を潰すしかないだろう。


最近のコメント