迷探偵がゆく

 玄関の扉をあけると、真夏の茹だるような熱気と蝉時雨が襲いかかってきた。エアコンの効いた部屋に戻りたくなる気持ちをぐっと抑え自転車にまたがる。サドルやハンドルはすでに火傷しそうなほど熱くなっている。
 強烈な日射しはハンドルを握る腕をジリジリと焼き、Tシャツをすり抜けて背中まで日焼けしそうだ。きっと裕子だったらシミができちゃうとか何とかいうだろうな、と思いつつペダルを漕ぐ。
 フレームの鮮やかなメタリックブルーのグラデーションが陽射しに輝く。そんじょそこらの自転車とはわけが違うのだ。
 乗ったことはなくても、名前を言えば誰でも知っているヨーロッパの高級自動車メーカーが作っている自転車で、同じようなデザインの国産自転車とはゼロの桁が一つ違う。今年の春、高校の入学祝いとバイトで稼いだ金を足して買った自慢の愛車だ。
 今やすっかり本牧のランドマーク的な存在となった複合型巨大ショッッピングセンターの駐輪場に愛車を停める。大切な愛車が盗まれないように、駐輪場の街灯の柱にチェーンをかけてロックする。
 この辺りの商業施設は、ちょうど自分が生まれたころに米軍の跡地を再開発してできた新しいものらしいが、もの心がついたときには既にそこに(、、、)存在していたという意味では、それが三渓園であろうが富士山であろうが同じだ。歴史の新旧は関係ない。
 冷房の効いた店内に入ると、一直線にエスカレーターを目指す。目的のフロアで降りるころには汗を吸ったTシャツが冷やされて、ぺたぺたと肌にくっつくのが気持ちいいやら悪いやら。
「よ、ジュリー」
 ゲームソフトの売り場にいる裕子の兄、榊原公隆が屈託のない笑顔で迎えてくれた。
 俺は子供のころから、ある年代以上の人には必ずといっていいほどこのニックネームで呼ばれる。あまり好みではないのだけれど、「澤田研司」という名前が往年の大スターを連想させるらしい。まったく関係のない俺には迷惑な話だ。
 ——字は違うんだけどな。¬
 背中にパラシュートもしょっていなければ、帽子をかぶってバーボンのボトルを持っているわけでもない。いうまでもないが、指先の出た手袋をした婆さんに毎日拝まれるのはゾッとしない。
 うちのアホな親父が、自分が若い頃に憧れていた芸能人の名前をつけたがり、生まれてくる子が女の子なら「アヤコ」、男の子なら「ケンジ」と決めていたそうだ。
 ファーストネームだけならごく普通の呼び名であるけど、どちらもファミリーネームの澤田姓がつくと、どうしても有名芸能人の顔が浮かんでしまうのはいかんともし難い。
 それでも、世間を震撼させたような犯罪者や、お笑いタレントと同じ名前でないだけ幸運だと思うことにしている。
「はい、これ」
 カウンターの上にだされた新作のゲームソフトを見て、安堵と興奮が同時にわき上がる。すかさず俺は、ポケットからくしゃくしゃになった五千円札をとりだす。
 五月の連休明けに予約を入れてから三ヶ月近く、待ちに待ったシリーズ三作目のRPGソフトだ。当初の発売予定は夏休み直前だったが、発売前になってソフトに不具合が見つかったらしく、結局は二週間発売が延期された。
 夏休み中にこのゲームを攻略するべく、綿密な計画を立てていた日本中の学生たちは肩すかしを食らった。いや、何も学生だけとは限らない。社会人のなかにも以外とゲーマーは多いのだ。
「平成の語り部」といわれる大物女性作家も、一年のうち三百六十日はコントローラーを握っているというとてつもないゲーマーらしい。RPGのゲームをそのまま小説にしたようなものまで書いていて、それがかなりの部数売れているらしいのだが、小説に興味のない俺にはどうでもいいことだ。
「ちょっと時間あるか?」
 商品とおつりを引ったくるようにして帰ろうとした俺に、何か周りを伺うような視線を奔らせながら公隆さんがいった。
 ——一秒でも早くうちに帰りたいのに。
 将来は義理のお兄さんになるかもしれない人だから、心証を悪くしないようにしなければいけない。
「何か?」
「いや、ちょっとここでは……。周りの目、いや耳があるからな」
 思わせぶりな公隆さんの言葉に、「げ、キスしたのがバレたか?」と瞬間的に思ったが、平静を装うことに神経を集中させた。 
 ——まさかうちの妹を傷物にしたとか、責任取れとか言わないよな?
「裕子、のことですか?」
 背筋に冷たいものが伝う。
 いくらお嬢さま育ちだからといって、キスしたくらいで幼気な高校生に責任取れとか言われても、彼女を養うだけの経済力は今の俺にはない。
「そうじゃないんだ。ちょっと相談したいことがあってね」
 ——どうも違うらしい。
 安心したところで、脇の下から汗がどっと噴きでる。
 裕子とは歳が十歳ほど離れているせいか、公隆さんは妹をまるで我が子のように可愛がっている。目に入れても痛くない、という例えがわかるような気もする。
 先月だったか、ちょっとした事件があった。
 公隆さんが何か探し物をして裕子の部屋に入ったところ、彼女は着替えの真っ最中だったそうだ。下着姿の妹にヘアブラシを投げつけられて、すぐさま追い出されたらしい。
 公隆さんは「それから二、三日は口をきいてくれなくて困ったよ」とブラシをぶつけられたおでこを摩っていた。いくら溺愛している妹でも、痛いものはやはり痛いらしい。
 ——おでこにタンコブくらいで済むなら、俺が替わってあげたのに。
「昼休みに一階で待っていてくれないか?」
 ハンバーガー二つにバニラシェイク、それにポテトのLサイズという条件を目の前に突きつけられてしまっては、気持ちよく尻尾を振るしかないだろう。
 けっして食べ物に釣られたわけではない。義理の兄になろうかという人の頼みをきかないでは男が廃るというものだ。『義を見てせざるは勇無きなり』という、先人の言葉もあるではないか。出典は論語だったか? 上杉謙信の言葉じゃないよな?
 難しいことはさておき、公隆さんの昼休みになるまで、あと一時間半をどうするかが問題だ。外の熱射地獄には行きたくないので、エアコンの効いた店内でもプラプラしながら時間を潰すしかないだろう。
 今履いているスニーカーの靴底がそろそろ限界に近いので、とりあえずは新作のスニーカーでも物色しようと、俺はスポーツ用品のフロアに行ってみることにした。
 エスカレーターを降りると自転車売り場が目に入ったが、我が愛車に勝るものはないので横目で見ながら素通りする。
 色とりどりのジャージやサッカーボールの脇を抜けてスニーカーの棚へ近づいて行くと、そこに見知った顔があった。
 いつも不健康そうな青白い顔をしている、同じクラスの柴崎拓雄だ。俺はあまり話したことはないが、どうも噂によると家でパソコンばかりいじっているらしい。だから拓雄を文字って付いた名前が「柴崎オタク」。
 まあ順当な命名だろう。
「よう」
 スニーカーの棚の前でぼんやりと佇んでいるオタク君に声をかけてみた。どう見ても、彼の容貌とスポーツ用品売り場というのはミスマッチだ。
「あ……」
 俺の顔を見たオタク君はそういったきり、瞬間冷凍されたみたいに動かない。
 他にリアクションのしようがないのかよと思いつつ、「何だ、スニーカー買いにきたのか?」と、俺は言葉を続けた。
 こいつ息してんのか? と思えるほど、オタク君は銅像のように固まったまま返事もしない。それでも微かに黒目が動いているので、辛うじて生体反応はあるようだ。
「い、いや別に……」
 たっぷり十秒は待っただろうか、やっと彼が口を開いた。
「ふうん」
 返事に時間がかかり過ぎるので、彼のことはもうどうでもよくなった。
 俺はスニーカーの並んだ棚に視線を奔らせる。ざっと眺めたところ新作ものが幾つかあったので手にとってみるが、どれも俺の趣味には合わない。
「あれ、まだいたの?」
 さっきから一ミリも動いていないのではないかと思える姿勢で、オタク君は同じ場所にじっとしていたが、視線だけは棚の方を向いている。
 何か気持ち悪いぞこいつ、と思いながらも彼の視線の先を追ってみた。
「おっ、いいじゃん」
 そこには、我が愛車と同じようなメタリックブルーのグラデーションになったスニーカーがあった。手に取ってみると、これがなかなかのデザインで購入意識をくすぐられる。サイズもぴったりだ。
「あ……」
 数秒おくれて、オタク君が何か言おうと口を開けた。
「何かいった? あ、これ買うの?」
「い、いや、そういう訳じゃ……」
 何だか歯切れの悪い返事だ。
「買わないの? そう。じゃ俺が買うわ」
 何か言いたげな彼を置き去りにして、俺はさっさとレジに向かった。
 レジには顔見知りのおばさんがいた。ちょうどうちの親父たちと同じくらいの年代だ。あらジュリーちゃんじゃない、とお決まりの挨拶に迎えられる。こちらも、どうもとお馴染みの返事を返す。
 支払いを済ませて振り返ると、彼はまだ棚の前でぼんやりと突っ立っていた。
「気持ち悪りぃな、あいつ。だからオタクって呼ばれるんだよ」
 つい口に出てしまった。レジのおばさんが不思議そうな顔で俺を見つめている。
「あ、何でもないです。独り言ですから……」
 ——何で俺が言い訳しなきゃならないんだよ、まったく。
 おばさんに愛想笑いして、もう一度振り返ると銅像は消えていた。
 早速トイレの個室に駆け込み、新品のスニーカーに履き替えた。よく見てみると、今まで履いていたものは限界に近いどころか踵に穴が空いていたのでゴミ箱に捨てた。
 思いがけずスッキリとした足もとに気分を良くした俺は、その後も本屋で雑誌の立ち読みをしたり、家電売り場でプラズマテレビを観て時間を潰した。ちょうど観たかった映画のDVDが映っていたので、すっかりそこで腰を落ち着けて大画面の迫力に見入っていると、約束の時間になってしまった。これを観終わるまで、あと一時間は欲しいところだ。
 後ろ髪をひかれるような思いを残しながら俺はエスカレーターに飛び乗り、バニラシェイクの待つ一階へと急降下する。
 DVDはまた観れるが、シェイクは今しかないのだ——。
 待ち合わせた一階のファーストフード店に入ると、もう公隆さんは席についていた。テーブルに置かれたトレーには、俺の分のポテトやシェイクも乗っていた。
 夏休みに入ったばかりということもあるのか、店内は小学生くらいの子供を連れた母親の姿が目につく。
「すみません。待ちました?」
 何しろ義理の兄になるかもしれない人だし、目上の人を待たせてしまったことにひと言謝っておく。減点要因は、できるだけ排除しておくに限る。
「いいんだよ、気にするな。お、新品の靴か?」
 屈託のない笑顔で公隆さんが訊く。
「はい。さっき上で買ったばかりです」
「ご自慢の自転車と同じ色だな」
 流石にわかっていらっしゃる、お兄さま。俺はへへへと、照れ笑いを返す。
「で、お話っていうのは……?」
 裕子のことではないのは確認済みだから気楽に聞ける。
「まあ、先に食べちゃおうか」
 チーズバーガーを頬張る公隆さんに倣って、俺もポテトを口に放り込む。
 思わぬところでご馳走にありつけたが、タダより高いものはない。あまり浮かれているとロクなことがない、と自分に言い聞かせながらシェイクを啜る。
「ああ、田村さん。お昼ですか?」
 公隆さんは椅子から立ち上がると、買い物袋を提げた小柄なお婆さんに会釈する。
「また何かありましたらお寄りください」と、いつもの営業スマイル。
 きっと得意客なのだろうという察しはつくが、あの歳でハンバーガーは脂っこいんじゃないのか、と勝手な心配までしてしまう。
「お孫さんのゲームなんかを、よく買いにきてくれるんだよ。でもあの歳だからゲームなんかチンプンカンプンだし、似たようなタイトルが多いだろ。たまに間違えて買ってしまうんだな。それに最近は少し老人ボケが入っているみたいで、同じものをまた買いにきたりもするんだ。こっちは商売だから数多く売れた方がいいんだけど、それもちょっとな」
「へえ」と、無難な相槌をうつ。
「先週もさ、ちょうど俺が休みの日にメモリーカード買っていったんだよ。それで帰ってみたら、型の違うやつで使えなかったんだ。早速交換しにきたんだけど、パッケージ開けちゃってるだろう。それでレジにいた新人君とひと揉めあって、結局その日は帰ったんだけど、翌朝一番で俺のところにきて、何とか交換してくれって頼まれちゃってさ」
「それでどうしたんですか?」
「本来はダメなんだけど、そうそう無下に断る訳にもいかないだろう。お得意さんだし。で、デモ機用のメモリーカードが余っていたから、中古だけどこれでもいいですかって渡したら、涙流して感謝されちゃったのよ。この春に息子夫婦が転勤で大阪に行っちゃったし、独り暮らしだから寂しいんだろうな、きっと」
 公隆さんはちょっと照れていたが、機転の効いた対応に俺は感心させられてしまった。客商売はこうじゃないとね。
「それで相談っていうのはね——」
 おっと、それをすっかり忘れていた。美談に感心している場合じゃなかった。俺は椅子に座り直して姿勢を正した。
「実はね、ここのところ万引きが多くて困っているんだよ。店内の警備も強化しているんだけど、一向に減らないんだ。それどころか、夏休みに入って増えている。まあこういった店舗の場合、ある程度の雑損は仕方がないし、学生が休みに入るとどうしてもその割合が増えてしまうのは防ぎようがないんだ。でも急激に増えると、こっちも赤字になっちゃうからね」
「そうなんですか……」
 何となく嫌な予感がしてきた。
「そこでジュリーに頼みたいのが、私服警備のバイトなんだ。「万引きGメン」とでもいうのかな。どうだ、夏休みのバイトにはもってこいだろう」
「お、俺にですか?」
 万引きの警備だったら制服警備員の巡回頻度を増やすとか、私服警備を配置するとか、それなりの方法があるだろうに、何で高校生の俺に依頼するんだ?
 それに柔道も護身術も知らないぜ——俺。
「君の能力を見込んでの頼みだ。もう上に稟議は通してあるから、何とか頼むよ」
 公隆さんは、両手を合わせて俺を拝むようにいう。仏像じゃないから拝んでもご利益はありませんよ、という言葉はぐっと呑込んでおく。
 それにしても稟議まで通っているとは、かなり深刻な状態なんだろうか?
「そんなに酷いんですか?」
「おお、そうか、やってくれるか!」
「い、いや。そうじゃなくって……」
「さすがに名探偵は呑込みが早い!」
 状況を聴こうと思っただけなのに、公隆さんはすっかり俺がやる気になっていると思い込んでしまった。
 俺が裕子と出会い、「名探偵」と呼ばれるようになったのはちょっとしたきっかけからだった。
 このショッピングセンターの一階エスカレーター脇には、伝言板として使われている大型のコルクボードがある。不要となったベビー用品を譲りますとか、産まれたばかりの子猫を貰ってくださいとか、バザーのお知らせとか、家庭教師募集までいろいろな紙が貼付けられている。
 昨年の夏休み、缶ジュースを飲みながら伝言板の横を通ると、「迷い犬」の紙をコルクボードに貼っている可愛い女の子がいた。それが裕子との出会いだった。
 ゲームソフト欲しさに謝礼の三万円を手に入れようと、その愛犬「ジュリー」——何故か俺のニックネームと同じ——を探した。夏休み中なので時間はいくらでもある。まずは本牧を手始めに、根岸の森林公園、三渓園、餌の豊富そうな中華街など、犬が潜んでいそうな場所を片っ端から捜索した。そして三日後の夕暮れどき、部活帰りの女子高生たちにパンをもらっていたジュリーを山下公園で発見した。
 念願の謝礼を手に入れ、おまけに美味しいケーキと紅茶を腹一杯ご馳走になった俺は、その足でショッピングセンターのゲームソフト売り場に行った。前から欲しかったソフトを何本か抱えてレジに向かうと、いつもそこにいる店員に話しかけられた。それが裕子の兄、公隆さんだった。
 それからというもの、迷子の犬や猫を探してくれという依頼がひっきりなしにくるようになり、捜索開始三日以内の発見率は七割という好成績で結構いいバイトなっている。そんな俺を世間では「名探偵」と呼ぶが、裕子だけは迷い犬を探すんだから「迷探偵」でしょ、と面白そうに笑う。

 翌日から、「万引きGメン」を拝命した俺は夏休みいっぱい朝九時に出勤し、閉店時間の夜八時まで店内の見回りをすることと相成った。労働基準法には反しないよう、昼休みの他にも途中で適当に休憩時間をとり、屋上の日陰で昼寝なんかもできる。
 これまでの被害品目を総合的に判断して、万引き犯は男子中高生だろうと公隆さんはいっていた。その理由として、夏休みに入ってから被害が急増していることと、その商品のほとんどが男子中高生が欲しがるものであり、盗まれた服や靴などのサイズがそれに該当するそうだ。
 それを裏付けるように、男子中高生があまり興味を示さない一階の食料品売り場やインテリア用品などは、夏休みに入ってから被害が拡大したという報告はないそうだ。
 そこまで犯人像がはっきりしているのであれば捕まえるのは容易いと思えるのだが、敵もなかなか巧妙な手口らしく現場を捕捉することができないでいる。
 まずは店内の情報収集から始めることにした。各売り場の配置や防犯カメラの位置確認をするとともに、店員から詳しい状況を訊いてまわったところによると、店内の混雑が激しくなる夕方がいちばん危ないそうだ。その時間帯は店員の目も行き届かないし、混雑に紛れて犯行も行ない易いのだ。
 実際に聞き込み調査をして驚いたのが、万引きの多いことだ。少しは世間を知っているつもりだった俺も、現実を目の当たりにして認識を新たにせざるをえなかった。
 それは大きく二つに分類される。
 一つは、平たくいうとスリルを味わいたいというもの。特に一般の主婦層が目立つ。この手の人種はお金に困っているわけではなく、買い物のついでについポケットやバッグに入れて盗んでしまう。特にその物に固執しているわけでもない。要するに手近にある何でもいいのだ。
 もう一つは換金目的。これは中高生が圧倒的に多い。盗む品物もゲームソフトや人気コミック本などが主流だ。ディスカウントストアや大手の古本屋に売りさばき、小遣いにしている。テレビのドキュメンタリーなどでよく観る手口だ。
 俺は万引き犯を直接捕まえることはしない。何せ高校生のアルバイト、それもGメンだから表面にはでない。万引きを発見したら公隆さんにケータイからメールを入れる。そして被疑者の追跡にはいる。表の駐車場に出たところで公隆さんと制服の警備員が待ち構えているという寸法だ。
 いつものように見回りをしながら、外のベンチでソフトクリームに齧り付いていると裕子がやってきた。彼女は先週からバトミントン部の夏合宿のため、軽井沢に一週間ほど行っていて昨日帰ってきたばかりだ。
 何もわざわざ遠くまで行かなくても、学校や区立の体育館だってバトミントンはできるし、猫も酌しも軽井沢に行く必要はないと思うけどな。それに、一週間も合宿していたわりにはぜんぜん日焼けしていないじゃないか。
「あれ、さぼってていいの?」
 裕子は開口一番、俺をリストラ寸前の中年サラリーマンのようにいってくれる。
「これも仕事のうちだよ」
「どうして? ソフトクリーム食べて、遊んでいるようにしか見えないけど」
「店内を一日中、高校生が目をギラギラさせて歩いてたらよけいにおかしいだろ。店員はわかっているからいいけど、知らないお客さんから見れば逆に怪しいヤツだぜ。だからこういう自然な行動が一番いいんだよ。いかにも高校生がソフトクリーム食べてます、って感じだろ。そうやって、店内の景色の一つになることで万引き犯を油断させるんだよ」
「何だかそれこそ怪しいなぁ」
「これだって毎日、コンスタントに検挙率は稼いでいるんだぞ」
 裕子はふうんといって、俺の手から食べかけのソフトクリームをはぎ取った。
「あ、こらっ、誰もあげるなんていっていないぞ!」
「けちくさいこと言わないの」
 彼女は悠然と夕張メロンの味を堪能し、最後にはバリバリと音を発ててコーンまで全て食べきってしまった。
「半分も食べていなかったのに……」
 急性の難聴にでもなったのか、彼女には俺の苦情が聴こえないようだ。彼女の柔らかそうな唇に俺はごくりと唾を呑む。
「さてと。早く買い物しなきゃ」
 裕子は花柄のハンカチで口を拭きながら立ち上がった。
「何だと、俺の顔を見にきたんじゃないのかよ?」
「それもあるけどね。でもお母さんに買い物頼まれたちゃったから。ちょうどいいから一緒にきて荷物持ちしてよ、ね」
 まったく都合のいいヤツだ。いや、それは俺のことか。
 大根やらキャベツやらですっかり重たくなった袋を裕子の乗ってきたママチャリのかごに積んでいると、青白い顔をしたオタク君が店に入ってゆくのが見えた。手には大きめのスポーツバッグを持っている。
「それじゃ俺、仕事に戻るからさ」
「あら冷たいのね。私よりも仕事の方が大事なの?」
 おいおい、どこかの愛人じゃあるまいし、純情可憐な高校生がいう台詞じゃないだろう。返事に窮している俺にはかまわず、裕子は手を振って帰っていった。
 後ろ髪を引かれるような思いを断ち切って、俺はオタク君の後を追う。顔見知りだけに気付かれないよう細心の注意をはらう。
 オタク君は何かを買う様子もなく、ただ店内をうろうろと歩き回っている。彼の容貌には不似合いな大きめのスポーツバッグと挙動不審ともいえる行動が、俺の頭の中で警鐘を鳴らしている。やはり先日、彼がじっとスニーカーに見入っていたのは購買目的ではないのかもしれない。すると、夏休みに入ってから急激に増えてるという中高生の万引き犯は彼なのだろうか。
 ふと彼の足もとに目をやると、このあいだ見入っていたのとは色違いの赤いスニーカーを履いている。つまり俺のとは色違いの“お揃い”じゃないか。ゲ、気色悪りぃ。
 やはり真打の登場か、と俺の心臓の鼓動は高まる。気分はすっかりハードボイルド小説の主人公だ。これで拳銃の乱射や麻薬でもでてきたら映画になるぞ、と勝手に独りで悦に入る。
 オタク君はエスカレーターを上がり書店に入った。まずは雑誌をパラパラとめくった後、コミックの棚に移動してゆく。
 中高生の万引きでダントツに多いのが人気コミックだ。自分で読むためではなく、最初から換金目的で盗むのが圧倒的に多いらしい。
 彼らの手口は皆同じで、平積みの新刊や棚差しのシリーズものを鷲掴みにして大きめのバッグに詰め込んで店をでる。その足で買取り専門店で現金化し、ゲームセンターなどで遊ぶようだ。女の子の場合は、それがブランド品などに化ける場合もあるらしい。
 俺は気付かれないように斜め後ろの文庫本の棚の影に移動し、オタク君の様子を伺う。やはり何か獲物を物色しているように、落ち着きのない視線が動いているのがこの位置からでも見てとれる。
 同級生を挙げるのは気が進まないが、これが俺の仕事である以上は目を瞑るわけにはいかない。息をのんで彼の行動を監視する。
 オタク君は左右に首を振って人の気配を確認し、棚の中段あたりに手をのばした。いよいよ現場を押さえる瞬間が訪れた。いっそう高まってくる心臓の鼓動で、頭のなかいっぱいに心拍音が響いてくる。
「ジュリー」
 彼がコミック本に手をかけた刹那、俺の背後から聞き覚えのある声がした。
 何でこんな絶妙なタイミングで声かけるかなぁ、と心のなかで悪態をつきながら振り返ると、公隆さんが満面の笑顔で近づいてくる。
 オタク君は俺の顔を見ると、そそくさと足早でどこかに去って行ってしまった。
 残念——。
「何やってんだ?」
 せっかくの大捕り物を逃した原因が自分にあるとは思ってもいないのだろう。
「ダメですよ、無闇に声かけちゃ」
「どうして?」
「今、いいとこだったんですから。もうちょっとのところで、逃げられちゃったじゃないですか」
「え、じゃあ例の?」
「そうですよ、万引き犯」
 ようやく状況を把握できたみたいだ。遅いっつうの。
「あ、そうなの。ごめん、悪いことしちゃったな」
 いやべつに、被害に逢っているのは店の方であって俺じゃないからね。でも仕事はきっちりとやらないと、俺のプライドっつうものもあるしね。
「これで犯人の見当はつきましたから、今度は押さえてみせますよ」
「そうか、流石は名探偵。期待してるよ」
 公隆さんは俺の肩をぽんと叩くと、エスカレーターに乗っていった。
 それから数日、オタク君は畏れをなしたのかショッピングセンターに現れなくなってしまった。せっくかくの大捕り物を逃してしまい残念な気持ちもあるが、同級生が万引き犯で捕まってしまうのもあまり寝覚めのいいものではない。彼が悔い改めてくれればそれにこしたことはないのだ。
 結果的に犯罪者をつくらずに店の被害が無くなれば、それが一番いいに決まっている。犯罪を暴くより、予防した方が誰にも被害はない。警察も少しは見習って欲しいものだ。
 
 世間ではお盆の休みに入り、昼のニュースでは高速道路の渋滞や、海水浴客で賑わう湘南海岸の映像が流れていた。最高気温も連日のように「今年一番の暑さ」が更新され、今日は人間の体温よりも高くなるそうだ。こんなときに外で働いていなくてよかった、と俺は胸をなで下ろす。日射病とか熱中症の心配どころではない。
 店内は冷房が効いていて涼しいのはいいのだが、一日中いると身体が冷えきってしまうのも困りものだ。ときどき外にでて、シャーベット状になった血液の温度を上げてやらないといけないが、直射日光は厳禁だ。きっと太陽の熱射で、溶けるか蒸発しちまうのがオチだろう。
 お盆の休み中は一階入り口横にあるイベント広場で、毎年恒例の「夏祭り」が行なわれている。
 べつに神輿がでる訳でも、盆踊りをやる訳でもない。イベント広場いっぱいに綿菓子や焼きそばの屋台がでて、夏祭りの雰囲気をつくっているだけだが、小学生以下の子供たちには人気のようだ。
 午前中の空いている時間に俺もちょっとひやかしに行ってきたが、田村のお婆さんが子供たちに混じって金魚すくいをやっているのを見かけたぐらいで、他に特に面白いものもなかった。
 俺は建物の北側に位置する業者用の搬入口の脇でジンジャエールを飲みながら、三時の休憩をしていた。ここはちょうど日陰になっていて風通しもよく、微かに潮の香りを含んだ夏の風が心地いい。
 さてそろそろ現場に戻ろうかと立ち上がったところで、視界の片隅に映った人影があった。
 ——オタク君だ。
 彼はこちらに気付く様子もなく、夏の日射しには不釣り合いないつもの青白い顔で自転車をこいでいる。自慢の白い肌にシミができるぞ、などといかにも裕子が言いそうなことを考えてみるが、彼にとっては大きなお世話だろう。
 彼は駐輪場に自転車を停め、ショッピングセンターのなかに入って行った。肩にはいつものリュックを背負っている。
 前回は寸前のところで邪魔が入ってしまい逃げられてしまったが、今日こそは挙げてやると気合いをいれて、俺は従業員用の入り口から建物のなかに入る。彼に見つからないように、エスカレーターは使わず非常階段を上った。
 まずは、前回と同じ二階の本屋にあたりをつけてみる。
 俺はフロア全体をさっと見回し彼の姿がないかを確認し、斜め向かいのCDショップに入ると、隅にある演歌のコーナーへと向かった。念のためことわってこおくが、何もこの大事な時に演歌を聴こうというのではない。前回の教訓を生かし、店の外からコミック本の棚が見える場所でかつ不自然ではない場所を探したところ、ここが最適であることを掴んでいた訳だ。
 最近は若手の演歌歌手が売れているのか、ちょっと昔のアイドル歌手さながらのジャケットが目につく。どの顔も見たことがあるような気はするのだが、どんな曲を唄っているのかタイトルだけを見てもさっぱりわからない。俺の親父たちと同世代か、それより年齢が上の歌手はあまり見当たらない。
 通路の向こう側に神経を集中しながらそんなことを考えていると、オタク君がふらふら歩いてくるのが見えた。あの方向からだと、きっとトイレに入っていたのだろう。こっちの準備もできたし、ちょうどいいタイミングだ。
 CDを顔の前にかざすように持ち、彼に気付かれないようにする。喫茶店に張り込んでいる間抜けな探偵が、新聞で顔を隠しながら容疑者の行動を見張るという、二時間ドラマなどでよくお目にかかる手だ。
 ところが件の容疑者—オタク君—は、俺の張り込みをかわすかのように書店の前を素通りし、エスカレーターでさらに上の階に向かって行く。
 ——クソッ、気付かれたか。
 俺は気を取り直して、また非常階段へと急いだ。一気に階段を駆け上がり、彼の行方を探す。すぐにスポーツ用品のコーナーに行ってみたが、そこに彼の姿は見当たらない。
 まだ何も盗っていないのだからむきになって追いかける必要もないのだが、先日の失敗があるので何としても今日は捕まえたい。
 俺はあまり目立たないようにフロアを巡回し、ぐるりと一周半したところでゲームコーナーにいる彼の後ろ姿を捉えた。さっき見つからなかったのは、通路脇に並んでいるプリクラの影になっていたためだろう。
 彼は俺に背を向けた格好で、UFOキャッチャーに齧り付いていた。振り返った途端に鉢合わせしないよう、少し離れたところから様子を窺ってみる。
 俺は必死になって操作板のボタンを押している姿を観察しながら、彼はただUFOキャッチャーで遊んでいる訳ではなく、どうもお目当ての商品があるようだということに気付いた。
 人気コミックのなかに登場する小悪魔的な存在で、女子中学生のあいだで人気急上昇のキャラクターのぬいぐるみだ。
 幾度かのトライのあと、彼はやっとお目当ての品物を手に入れ、まるで宝物でも扱うかのようにそれをリュックにしまう。
 そこで、俺は奇妙な光景を目にしてしまった。彼がそのぬいぐるみをリュックにしまうとき、よく小さな女の子がそうするように、手にしたぬいぐるみに愛おしそうに頬擦りしていたのだ。
「は?」と思った次の瞬間、俺は「ゲッ、気持ち悪りぃ」と独り言を呟いていた。運悪くそこにちょうど通りかかった親子連れに、変質者でも見るような怪訝な顔をされてしまった。
 俺はいたって正常だ、といってみてもはじまらないのでやめておいた。変態オタクのおかげでとんだ災難だよ、まったく——。 
 オタク君は使命を果たした満足感をその青白い顔に浮かべ、リュックを肩に足どりも軽く歩いて行く。離れているので正確なところはわからないが、どうも鼻歌まで唄っているようだ。
 ——やっぱり気持ち悪りぃ。
 ご機嫌になったところで今日のところはご帰還あそばすのか、それとも次なる獲物を求めるのか。俺はつかず離れず彼のあとを追ってみる。
 子供服売り場を通り過ぎたところで、こちらに向かって歩いてくる公隆さんの姿が視界に飛び込んできた。前回に引き続き公隆さんに大声だされて、オタク君に逃げられたらたまったものじゃない。俺は公隆さんに見えるよう自分の口の前に人差し指を立てて、声をださないで欲しいというジェスチャーをした。
 公隆さんもそれに気がついたのか、何か言いかけた口を閉じた。俺が追っている万引き犯を探すように視線があちこちに泳いでいる。
 俺が前を歩くオタクを小さく指差すと、公隆さんは黙って頷き、足早に階段の方へと向かって行った。たぶん警備室に応援でも呼びに行ったのだろう。
 そんなこちら側の緊張も知らずに、鼻歌まじりのオタク君はスキップでもしそうな足どりで文具売り場へと入って行った。
 文房具の場合、ファイルのような大きなものであればリュックに入れる瞬間を目視し易いが、消しゴムのような手のなかに隠れてしまう比較的小さなものだと、離れた場所からでは見え難い。できるだけ彼の手元が見える場所を探してはみるものの、顔を知られているだけに近づくことができない。
 何かいい方法はないものかと辺りを見回すと、レジに顔見知りのお姉さんがいた。現在の緊迫した事情を知らない彼女は、俺の顔を見て挨拶代わりに微笑んでくれた。
 いや、そうじゃなくってさ——。
 この場合、もうちょっと状況を把握して機転を効かせて欲しいんだけどな。
 ——まあ、そりゃ無理ってもんか。
 俺はレジのお姉さんのところに行き、手短かに事情を説明した。以外と呑込みの早かった彼女は、私が見張りますとさっとオタク君のところに向かった。
 ——なかなかやるじゃん。こうでなくっちゃね。
 とりあえずはお姉さんに任せて、俺はオタク君に見つからないように少し離れた場所へ移動した。彼女とオタク君の後頭部だけが、遠目に確認できる。
 しばらくするとオタク君は、いくつかの文房具を手に持ちレジへと向かった。近くで監視していたお姉さんは、その場で俺の方に小さく首を振った。
 どうやら彼に不審な動きはなかったらしい。
 ——今日は収穫なしで帰るつもりなのか?
 オタク君はレジで支払いを済ませると、商品の入った袋をリュックにしまう。さっきのぬいぐるみがちらりと見えた。
 監視をしてくれたお姉さんに礼をいって、俺はさらに彼の後を追う。
 時計を見ると、もう午後四時を過ぎようとしていた。お盆休みの閑散期とはいえ、そろそろ夕方の買い物客が多くなってくる時間だ。店内が混雑してくると人ごみに紛れてしまい、犯行の現場を押さえるのが難しくなってくる。もちろん犯人にとっては、都合がいいのはいうまでもない。
 特に何かを買うでもなく、オタク君はフロアをぐるりと一周するとエスカレーターで下の階に下りて行った。少し間隔をあけて、俺もエスカレーターで下りる。
 尾行を気付かれないよう柱や商品の棚をうまく利用して、彼の死角から行動を観察する。傍から見れば、とてつもなく怪しい奴に見えるだろう。ちょっと恥ずかしい気もするが、これが仕事なのだから仕方がない。
 彼は本屋の前でいちど立ち止まり、すぐ何かを思い直したように踵を返してまた歩きだした。
 彼が振り向く寸前で、先ほどのCDショップに素早く駆け込んだ。アイドルの等身大の立て看板の影に隠れて彼の後ろ姿を見ていると、ふいに肩をたたかれた。
「何やってんの?」
 全神経をオタク君の尾行に費やしていたため、自分の後ろには注意が及ばなかった。驚きでぴくっと肩をすぼめた。
 きっと事情を知らないショップの店員が、挙動不審な若者——俺のこと——を呼び止めた、ってところだろうか。
 ——まったく仕事の邪魔はしないで欲しいものだね。
 ところが振り返ってみると、そこにいたのは裕子だった。
「何って、仕事だよ、シ、ゴ、ト」
 俺はふてくされたようにいった。
「さっきから見てたけど、物陰でこそこそして余計に目立っちゃってるよ。そんなんで仕事になるの?」
 ——痛いところを突きやがる。
 俺だって好きでやってるんじゃないわい。オタク君の尾行に神経を集中させていたため、まわりの状況が把握できていなかったらしい。やはり俺は怪しい奴だったようだ。
 裕子と話をしているあいだに、鼻歌まじりのオタク君は離れて行く。
「また後で!」
 まだ何かいいたげな裕子を残して、俺はオタク君を追う。気持ち悪いオタクを追うようりも、彼女と一緒にいる方が百倍いいに決まっているが、仕事である以上は仕方がない。
 男はつらいよ、と寅さんの口真似をしてみるが、そんな台詞が本当にあったかどうかは定かではない。
 さっき本屋の前で立ち止まったのは、やはり店内の状況を確認していたのだろうと思える。客が少ないと犯行が丸見えになるし、逆に多すぎても支障がある。
 さっきの時点では、彼が狙っているであろうコミックの棚の付近には小学生くらいの児童が多くいたので、頃合いを見計らっているのだろう。
 彼は何か獲物を物色するような様子もなく、まっすぐトイレに入って行った。本屋に入ろうとしたところ、単に尿意を催しただけなのかもしれない。
 俺は着物売り場にあるマネキン人形の影に隠れて、彼がでてくるのを待ってみることにした。なかで鉢合わせでもしたら、せっかくの尾行が水の泡になっちまう。
 ちょうど時期なのか、普段でもあまり人けのない着物売り場には、団扇や色とりどりの浴衣が並べられている。俺の目の前の人形もひまわり柄の浴衣を着て団扇を持っている。
 裕子にもこんな浴衣を着せて、花火見物にでも行ってみたいと思う。きっとよく似合うだろうとニンマリしてしまうが、俺は何を着ればいいんだろうか。女の子たちの浴衣姿はよく見かけるしいいものだが、若い男が着ているのを見たことがないように思う。たまにいるのは年寄りばかりだ。
 そんなこと考えているうちに、オタク君がトイレからでてきた。俺は気を引き締めて尾行を続ける。
 彼はやはり本屋に戻って行った。
 俺はまたCDショップに入り裕子の姿を探したが、もはや彼女はいなかった。もう帰ってしまったのだろう。また演歌のコーナーから本屋にいる彼を観察するが、店内をくるりと一周すると何もしないで彼はでてきてしまった。まっすぐにエスカレーターに乗り、下の階へ下りて行く。
 ちっ、俺は軽く舌打ちした。コミックの棚のところに見知った顔があったからだ。名前は知らないが、同じ高校の女生徒だ。オタク君はきっと彼女に気がついて、犯行を見合わせたのだろう。
 ——まったく、タイミングが悪いぜ。
 なかなか犯行現場を押さえられない苛立ちがつのるが、そこはぐっと我慢し俺もエスカレーターに乗った。
 彼は一階のフードコートでソフトクリームを買うと、外にでて行ってしまった。
 ——何だよ、帰っちまうのか?
 今日の犯行はあきらめたのだろうか。万引きも毎回という訳にはいかないのだろう。
 せっかくの尾行も無駄骨になったかと気をおとしながら、俺は念のために彼の動向を見守る。
 ソフトクリームをなめながら、彼はイベント広場で行なわれている夏祭りの屋台のあいだを見るともなしに歩いている。夕方のこの時間になるとさすがに人が多く、注意をしていないと彼を見失ってしまいそうだ。
 まあ、外の屋台で万引きでもないだろうから俺の方も気楽でいられるし、とすっかり気が抜けてしまった俺は、屋台のかき氷を買ってのんびりと駐輪場の方に移動し、すぐ脇にある非常階段を数段上ったところで腰をおろした。ここからならイベント広場全体が見渡せる。
 俺はシロップで舌を赤くしながら、ゆっくりかき氷を味わった。
 十五分ほどかけて屋台をぐるりと一周してきた彼は、ソフトクリームもすっかり食べ終えていた。コーンについていた紙をゴミ箱に捨てると、また店内に戻って行った。
 屋台を見たらそのまま帰るのだろうと高をくくっていた俺は、彼の予想外の行動にいささか慌ててしまった。かき氷はまだ食べ終わっていない。
 ——まったく。
 食べきっていないかき氷への不満と、今度こそ現場を押さえられるかもしれないという期待が頭のなかで渦まく。
 俺は急いで非常階段を駆け下り、三分の一ほど残ったかき氷をゴミ箱に投げ込んだ。
 ——この無念、晴らさでおくべきか!
 みみっちいとは思いつつも、イチゴのシロップがかかったかき氷はやはり心残りだ。今度こそ絶対に現場を押さえてやるぞ、と意気揚々の尾行を始めたはいいが、件のオタク君はすぐに一階の奥にあるトイレに入ってしまった。
 ——くそっ、ただトイレに行きたかっただけなのか。
 まったく、トイレばっかりよく行くやつだぜ。ソフトクリームで腹でも冷やしたか?
 せっかく燃え上がった小さな復讐の炎も、情けないほどに鎮火してゆく。
「なんだよ、最後まで食べちまえばよかったな、かき氷。あいつのおかげでまるっきり損したじゃないか」
 つい独り言が口にでていた。
 ぽんと肩を叩かれ振り向くと、すぐ後ろには買い物袋を提げた裕子が立っていた。
「独りで何をぶつぶついってるの?」
「あ、あれ? 帰ったんじゃないの?」
「買い物してたの」
 裕子はそういって、両手の買い物袋を掲げてみせた。
 さっきCDショップから帰ったとばかり思い込んでいた裕子は、一階の食料品売り場で買い物をしていたのだった。
「独りで何をぶつぶついってたの? 知らない人が見たら、ちょっと変な人みたいだよ。まあ、知っている私が見ても十分に変だけど」
 大きなお世話だっちゅうの。こっちは、大事なかき氷を犠牲にしてまで仕事してるっつうのに。そういう言葉は、ぐぐっと呑込み我慢する。
 いつも笑顔の好青年は、そういうことをいってはいけないのだ。
「いろいろと大変なんだよ、こっちもさ」
 言い訳になるんだかならないんだか、よくわからない言葉しかでてこない。
 裕子もわかったようなわからないような顔をして、「そう。じゃあまたね」といって元気に出口へと向かって行った。
 オタク君のせいで裕子にまで変人扱いされちまったじゃないか。この借りはきっちりと返してもらわないと、俺の男が廃るっちゅうもんだぜ。
 そんなこっちの気概をあずかり知らぬオタク君は、しばらくすると何食わぬ顔でトイレからでてきた。このまま帰るのか。それともまた本屋に向かうのか。
 そのまま本屋に行け、と俺はじっと柱の影から彼に念を送る。
 不謹慎かもしれないが、これだけ手間暇かけて尾行しているのだから、今日こそ結果をだしたいという思いが強くなるのは当然だろう。食べ損なったかき氷の分まで敵討をしなくては俺の気が収まらない。
 執念で送り続けている“念”が伝わったのか、彼はエスカレターで上の階に上って行った。
 ——よっしゃ! 絶対に捕まえてやるぞ!
 俺は気合いを入れ直し、適当な間隔をおいて彼のあとに続く。
 一日で、こう何度も店内を行ったり来たりする理由は、たった一つしか見当たらない。彼は犯行の機会を狙っているのだ。今度こそ、三度目の正直ってやつだ。
 二階でエスカレーターを降りると、予想通りオタク君は本屋へと入って行った。店内はさほど混雑している様子もなく、コミックの棚近くにはほとんど人がいない。そして都合のいいことに、レジの前では数人が会計のために並んでいる。
 この状況は、万引き犯にとっては絶好のタイミングだろう。棚から盗んだ本をバッグに入れる時に、近くにいる誰かに見咎められる可能性は究めて低く、店員はレジで忙しいので監視の目は行き届かない。
 オタク君はこの絶好のタイミングは見逃さないだろう。俺だってこの状況ならいくらでも万引きができそうだ。
 俺は期待に胸を膨らませながらオタク君の死角になる場所を探しながら少しずつ移動する。今回は手元の確認とともに犯行の瞬間を押さえたいので、向かいのCDショップには入らない。あそこからでは、その瞬間を押さえることができないからだ。
 彼は入り口付近の雑誌を眺めるふりをしながら、絶え間なく周囲の視線を気にしているようだ。雑誌を捲る手の動きと、絶え間なく左右を確認している視線の動きがまったく同期していない。
 今までの被害状況から推測するとかなりの回数をこなしているはずで、ある意味“手慣れた”もののような気がするのだけど、やはり犯行直前にはかなりの緊張を強いられるのだろうか。
 彼の緊張が知らぬ間にこちらにも伝わってくるのか、俺の手のひらも汗でびっしょりと濡れてきた。Tシャツで手の汗を拭う。気がつくと心拍数まで上がってきている。
 ——おいおい、俺が緊張してどうすんだよ。
 彼はゆっくりとコミックの棚に移動すると、左右の人影を確認するように視線を奔らせる。
 ——いよいよ、待ちに待った瞬間だ。
 緊張のあまり、昂った心臓の鼓動が頭のなかで大音響を奏でる。まるで頭の中に心臓があるみたいだ。
 彼の右手が棚にのびて行く。
 その動きは映画のなかのスローモーションのようにゆっくりとしていて、たった数十センチの移動にとてつもなく長い時間がかかっているように思われた。
 ——早く。
 俺は心の中で叫んでいた。
 公隆さんから依頼されている、夏休みに入ってから急増しているという中高生と思われる万引き犯を押さえる瞬間がついにやってきた。
 同級生が万引きをする瞬間を心待ちにしている自分を卑下する気持ちもあるが、悪いものは悪いのだ。何もこちらが良心の呵責に気を遣うことではない。
 正義は我にありだ。
 いよいよ彼の右手が棚に届いた。
 その人差し指が、一冊のコミック本を抜き出そうとしいている。
 そのまま左手に持ったリュックに入れるのだろうか。
 一冊だけか? シリーズもののコミック本は、単品より全作セットの方が換金率がいい筈だ。しかし、棚からごっそりと抜いてしまうと目立つので、少しずつ抜いている可能性もある。
 ——なかなか敵も考えるものだ。
 だが、一回の抜き取りが少なく発覚する危険率が低くなるとはいえ、回数を重ねればそれだけ手間も増えるし、発覚する危険率も上がるのは必至だ。それは今、俺の監視の目が光っていることで安に証明されているではないか。
 ——愚か者め。終に年貢の納め時だぜ。
 俺はその瞬間を見逃すまいと、瞬きをするのも忘れて彼の行動の一部始終を観察する。
 彼が棚からその一冊を抜き出した刹那、またも不運な邪魔が入った。
「あ、ジュリーだ!」
 ——げっ!
 肝心なときに、何でいつもこう邪魔が入るんだ。前回も同じように公隆さんに声をかけられ、オタク君ににげられてしまった。これで二度目だ。
 舌打ちしながら声のした方に振り返ると、裕子といつもつるんでいる絵美が書店の紙袋を胸に抱えて立っていた。袋の大きさからして、きっと雑誌でも買ったのだろう。
 ——万事休す。
 絵美の声に一瞬ぴくっと動作をとめたオタク君は、死角に入っていた彼女と俺の顔を交互に見て、慌てて書店から飛びだして行った。
 ——まずい。逃げられる。
 肝心なところで絵美に声をかけられ彼女の方に振り返ってしまったので、彼が本をリュックに入れたかどうかは確認できなかったが、あの慌てぶりからすると犯行に及んだと思っていいだろう。
 ——とにかく彼を追いかけなければ。
 何かいいたげな絵美を置き去りにして、俺はダッシュでエスカレーターに向かった。一段飛ばしでエスカレーターを駆け下りる俺に、不審な顔をした買い物客の視線が集まる。
 一階に降りたところでオタク君の姿を探す。
 ——いた。
 彼はリュックを右肩に背負い、早足で出口に向かっている。
「待てよ、柴崎!」
 彼は俺の声に驚き、一瞬ぴくっと首を縮めるようにして立ち止まった。そして、まるで幽霊でも見るような顔で俺を振り返ると、弾かれたように出口へと駆けだした。
「おい、待てって!」
 俺は先ほどにも増して大声で呼び止めたが、恐怖に駆られたオタク君は猛然とダッシュする。
 待てといわれて、はいそうですかと待つ犯罪者は見たことがない。いつもテレビの刑事ものを観ながら突っ込みをいれている自分が、まさか同じ台詞を吐くとはお笑いものだ。
 とにかくこの場は彼を捕まえなくてはいけない。俺も自慢の健脚で後を追う。
 彼は何を血迷ったか、建物をでると道路側ではなく夏祭り会場になっているイベント広場へ逃げ込んで行った。
 人ごみに紛れて逃げようとでも思っているのか。
 渋谷や新宿の人ごみであればそれも可能かもしれないが、高々ショッピングセンターのイベント広場にそれ程の人数はいない。彼は広場の一番奥にある、さっき俺が買ったかき氷の屋台の裏側に駆け込んで行った。
 ——あほなやっちゃなぁ。すぐに捕まるっつうの。
 袋小路に追い込んだのと同じだ。俺は余裕の足どりでゆっくりとその屋台に近づいて行く。
 ところが彼を捕まえる前に、ちょうどその屋台でかき氷を買っていた裕子に俺が捕まってしまった。
「あれ、仕事しないでまた休憩?」
 こっちの気も知らないで、裕子は呑気にかき氷を突いている。
 ——まだいたのかよ。何でこういつも兄妹して邪魔するんだよ、まったく。
 心のなかで毒づきながらも、俺は笑顔で応えた。
「今、まさに仕事中なんだよ」
「え? どこが?」
 裕子の問いには答えずに、俺は屋台の後ろに回り込む。ところが……。
 青ざめた顔をしてそこにいる筈の、オタク君の姿がなかった。
 ——げっ、どこ行きやがった。
 青ざめたのは俺の方だった。
 きょろきょろと辺りを見回す俺を、裕子は不思議そうに眺めている。
「仕事しているようには見えないけどなぁ」
 裕子はかき氷を口に放り込みながら笑っている。
 まずいぞまた逃がしたか、と反省の念にかられていた俺の視界の隅に、イベント広場の出口に近い焼きそばの屋台の裏側からあのリュックがでてきたのが映った。
 ——いたっ!
 どうやら彼は見つからないように、屋台の裏側をうまく移動していたらしい。
 今度こそ逃がさないように、静かにそして迅速に彼に近づく。裕子はかき氷を頬張りながらもぐもぐいっているが、非常時だけにそれは無視する。
 へたに声をだすとまた逃げられる可能性があるので黙ってリュックを掴んでやろうと、俺は気配を悟られぬよう抜き足差し足で彼の背後に迫った。
 いつなんどき彼が振り返らないとも限らない、という緊張感で俺の背中や脇の下には汗が伝う。ただでさえ暑いのに不快指数が倍増する。裕子が美味そうに食べていたかき氷が瞼に浮かび、余計に喉が乾いてきた。
 彼はすっかり俺を撒いたと思っているらしく、後方への注意が疎かになっているようだった。おかげで俺はすんなりと彼の後ろにつくことができた。
 ——さあ年貢の納めどきだぜ。
 目前のリッックに手をかけようとした刹那、彼の動きがぴたりと止まった。
 彼の歩調に合わせるようにぴったりとくっついて後ろを歩いていた俺は、もう少しでぶつかるという寸前で止まった。
 ——なんだ?
 一瞬、俺の尾行が気付かれたのかとも思ったが、彼は後ろを振り向きもせず前を見たまま微動だにしない。彼の真後ろにいる俺には、リュックと彼の後頭部しか見えない。
 仕方がないので、一歩右にずれて彼の視線の先を追ってみた。すると——。
 公隆さんが二人の警備員を従え、こちらに向かってくるのが見えた。
 ——挟み撃ちだ。
 俺はほくそ笑んだ。これで捕まえることができる。
 オタク君は警備員が現れたことで動揺しているのだろう。立ち止まったまま、左右に視線を奔らせ逃げ道を探しているようだ。そして真後ろにいる俺に気がついたのか、後ろをふりかえった彼の目は大きく見開かれ、その口は短く「あっ」という言葉を発したままの格好で固まった。
 俺は、その大きく見開かれた瞳の奥で感じているであろう恐怖をあざ笑うかのように、にんまりと余裕の微笑みを贈ってやった。
「逃げても無駄だぜ。おとなしくお縄につきな」
 少々時代がかった臭い台詞になってしまったのは、昨日テレビで観た水戸黄門のせいかもしれない。
 ところがそんな俺の決め台詞がまったく耳に入っていないのか、彼は逃げ場を探すうようにきょろきょろと辺りを伺っている。
 ——まだ逃げるつもりか、こいつ。
 とにかく証拠物件を押さえてしまおうと、俺は彼のリュックに手をかけた。公隆さんと二人の警備員もすぐ近くまできている。
 するとそれを合図にしたように彼は俺の手を振り払い、猛然と道路の方に向かって駆け出した。
「ったく、手間のかかる奴だなぁ」
 俺から逃げたところで、彼の駆けて行く正面には警備員が待ち構えているのだ。わざわざ自分から捕まりに行くようなものじゃないか。
 俺は後を追うでもなく、余裕で遠ざかってゆくリュックを見送った。すぐに警備員に取り押えられ、お縄につくに違いない。
 ところが——。
 そんな俺の希望的観測を知ってか知らずか、彼は警備員の間をするりと抜けて行ってしまった。
 ——あっ。
「何だよ。どうなってんの?」
 俺はそういいながら走り出していた。
 呆然と立ち尽くす制服姿の警備員二名と公隆さんの脇を抜けて、彼の後を追う。
 どうやら制服姿の警備員二名は、夏休みのバイトできている大学生のようだった。きっと店内の巡回警備だけをしていればいいだろうと安直に思っていたのだろう。まさか万引き犯の逮捕——警察官ではないので逮捕はできないが——をするなんて思いもしなかった場面に出くわし、戸惑っているうちに逃げられた感は否めない。
 ——しっかりしてくれよ、まったく。
 結局のところ、また俺が追うことになってしまった。『振り出しに戻る』だな。
 彼はイベント広場をでて、一直線に駐輪場に向かって走っている。自転車で逃げるつもりなのだろう。どうせ自転車のロックを外すのに手間がかかるから、後を追うこちらにも時間的な余裕ができる。
 ——間抜けな奴だぜ。
 俺の予測通り、彼は駐輪場にある自転車に飛び乗った。
 が、しかし——。
 慌てているためかロックを外すのを完全に失念している彼は、漕ぎだそうとしてペダルに足を乗せたままの格好で————ぶざまに転んだ。 
 その滑稽な場面に、走りながら俺は笑ってしまった。
「おい、いい加減に観念しろよ、柴崎」
 彼は自転車のフレームに足が引っかかってしまって、起きように起きれないでいる。この後に及んでまだじたばた逃げようとしている彼を見て、俺は腹を抱えて笑ってしまった。
 そうしているうちに先ほどの警備員がやってきて、二人がかりで彼を起した。
「まったく手間のかかる奴だな」
「な、何なんだよ。俺が何をしたっていうんだよ!」
 左右を警備員に挟まれ、右足のジーンズの裾をチェーンの油で汚した彼は、そう俺に抗議した。
「何って。じゃあ何で逃げるんだよ? 何かやましいことがあるから逃げるんだろ? そのリュックの中身を見せてみろよ」
 ちょっとした真夏の捕り物に、買い物客が集まってきて人だかりができ始めた。
 すっかり気分は水戸黄門——じゃなくて、観衆の前で犯罪を暴き出す金田一耕助ってところだ。
 さて、証拠の物件でも拝見するか、と彼のリュックに手をかけると、また暴れだした。
「離せよ!」
 左右から警備員が必至になって押さえつけるのだが、彼もなかなかしぶとく暴れ続ける。
「何もやましいことがないなら、そのリュックの中身を見せてみろよ」
 観衆から格好良く見えるように、俺はできるだけ冷静にいった。
 ——よし、決まってるぞ。
 そう俺が自分に酔っている隙にオタク君は警備員の手を振りほどき、またもや逃げだした。ほんとうに往生際に悪い奴だ。
「こらっ、待て!」
 大人しく待つ筈もないのは承知だが、どうしてもこの言葉しかでてこない。
 遠巻きにしていた人垣が、オタク君の逃走進路に合わせて二つに割れる。まるで聖書にでてくるモーゼのようだ。
 ところが海の水とは違い、野次馬の人垣が割れてゆくスピードはそれほど早くはなかった。彼は人の波に揉まれながら逃げなければいけなくなってしまい、逃走のスピードは減速を余儀なくされた。
 当然のことながら俺と警備員はすぐに追いついた。
「逃げるな、柴崎!」
 大勢の人が身守るなか俺と揉み合いになった末、数人の野次馬と駐輪場の自転車をなぎ倒しやっとオタク君を取り押えた。
 いつのまに持ってきたのか、公隆さんがガムテープで彼の身体をぐるぐる巻きにした。
「これでもう逃げられないだろう」
 公隆さんはそういうと、所在なげに突っ立っている警備員に彼の身柄をあずけて警備室に連れていくように指示をした。
 彼もとうとう諦めたのか、連行されてゆくがっくりと肩を落とした後ろ姿が痛々しげに見えた。
「ご苦労さん、ジュリー」
 公隆さんは、俺のTシャツの背中についた汚れをはたいてくれながらいった。
「ようやく捕まえました。これでひと安心ですね」
「周りの人にも迷惑がかかっちゃったな」
 俺たちがなぎ倒してしまった人たちに、公隆さんはひとりひとり頭を下げている。いくら仕事中の事故とはいえ、その張本人である俺も一緒に謝った。
 俺たちの被害に逢った人には、お詫びとして『お買い物券』を進呈するそうだ。さすがにイメージダウンにならないような配慮は忘れていない。
「ああ、田村さん。大丈夫でしたか? どこかお怪我……」
 被害者のなかに田村のお婆さんがいた。怪我でもしたのか、地べたに座り込んで足を摩っている。近くには買い物袋が落ちていて、無惨にも中身が散乱している。
 田村さんの身体を気遣いながら、それらを拾い集めていた公隆さんの動きと言葉が途中で止まった。
 何だろうと思っていると、困り果てたような顔をした公隆さんが俺の方を振り返った。
 俺は公隆さんの手元を覘き込んだ。
 すると——。
 お婆さんの買い物袋からでてあちこちに散乱しているものは、値札やタグが付いたままの商品だった。しかもゲームソフトや服などといった、どう考えてみても本人が使うとは思えない物ばかりだ。
 何かとてつもなく嫌な予感が俺を襲う。
 あたふたとする公隆さんとは対照的に、田村のお婆さんは素知らぬ顔で足を摩っている。
「これは……」
 公隆さんと俺は、しばし顔を見合わせた——。
 
 事務室の片隅で二人の警備員に挟まれ、所在なげにしょんぼりと座っているオタク君こと柴崎拓雄。それとは対照的に自分の立場を理解していないのか、騒ぎを聞きつけてやってきた絵美と楽しげに世間話をしている田村のお婆さん。
 この二人の顔を交互に眺め、公隆さんはため息を一つついた。
「さて困ったなぁ。どうしよう、ジュリー?」
 そんなこと俺に訊かれても、どう返答していいかわかる筈もない。俺は万引き犯を捕まえてくれとバイトを依頼されたただの高校生だ。警察官でもここの社員でもないから、捕まえた後のことは免責事項だろう。
「さあ、俺に訊かれても……」と、俺は正直にいった。
 正直者が一番だと、死んだ婆ちゃんもいっていたし。
 さっきの格闘劇であちこち擦りむいた俺は、騒ぎを聞いて駆けつけた裕子と絵美に薬を塗ってもらっている。ちょっと痛いのを除けば、結構いい身分かもしれない。
 ただこの二人は、事務室にあった救急箱から適当に効きそうな薬を面白がって選んでいるようで、それが本当に効くのかどうかは甚だ怪しいところだ。
 万引き犯を捕まえたはいいが、その思ってもいなかった予想外の事件の終息に公隆さんは少々頭を悩ませている。
 夏休みに入ってから激増していた万引きの真犯人は、俺が苦労して捕まえたオタク君こと柴崎拓雄ではなかったのだ。
 彼のリュックの中身を調べたところ、文房具売り場で買った商品とUFOキャッチャーで獲得した例のぬいぐるみ以外、でてきたのは予想していたコミック本ではなく、その本に付いていた『帯』が一枚だけだった。
 よくキャッチコピーやキャンペーンのお知らせ等が載っている、表紙のうえに巻かれたあの細長い紙だ。よく注意していないと、それを盗ったかどうかすら見落としてしまいそうなものだ。
 彼に問いただしてみたところ、そのコミック本は美少女戦士もので、熱狂的なファンが多いらしく、いろいろなイベントやグッズの販売などもあるらしい。彼もその熱狂的なファンの一人で、現在のところ十五巻まで出版されている全てを所有しているそうだ。
 それだけで俺には十分に「キモイ、オタク君」だ。
 全巻所有しているのなら何も『帯』だけ万引きしなくてもよさそうなものだが、彼には彼の切実な事情があったのだ。
 それは夏休み期間限定で、その全十五巻に応募券付きの『帯』が巻かれることになり、その応募券を一から十五まで集めて応募すると、美少女戦士のフィギュアが当たるというキャンペーンが行なわれているらしい。しかも特製の非売品で、現在インターネット上ではその話題で持ち切りだそうだ。
 全巻をすでに所有している彼としては、また同じものを全巻揃えるよりはその『帯』だけを盗めばいいという結論に達したらしく、あちこちの本屋をはしごしてはその『帯』の収集に励んでいたようだ。
 法規的にどうかは知らないが、たった『帯』一枚とはいえ万引きであることに変わりがないだろう。しかし、それだけで前途のある高校生を罪に問うというのもどうしたものかと、公隆さんは悩んでいるのだ。
 その一方で、まったく誰もが予想の範囲外だった田村のお婆さんが、件の真犯人だということが露見してしまった。しかも、本人にはまったくその意識がないというところが余計に問題をややこしくさせてしまう。
 騒ぎを聞いて事務所にまで集まってきた近所の世話好き(おせっかいな)な奥さんたちの話によると、この春に息子夫婦と孫が大阪に転勤してしまったあたりから“まだらボケ”が発生していたらしいというのは、前に公隆さんから聞いていた通りのようで、今年中学三年生になる孫の喜ぶ顔が見たい一心と“まだらボケ”が連鎖し、自分でも無意識のうちに犯行におよんでいたようだ。
 何度か田村宅にあがったことのある奥さんの証言では、居間や押し入れの中には、万引きしてきたと思われる値札の付いたままの商品が沢山あったそうだ。
 この夏休みから激増していた万引きは、注目していたオタク君ではなく、田村のお婆さんが真犯人であったということだが、記憶のない“ボケ”た状態での犯行であるために、それをそのまま万引き犯として扱うのかどうか、ということが大きな問題になる訳だ。
 店側としてみればどんな事情があろうと万引きであることには違いはないし、警察に突き出すこともできるのだが、店の対応による諸般の影響を鑑みると、それもなかなか難しいところだ。
 公隆さんが悩んでいるところに、騒ぎを聞いた店長がやってきた。企業戦士というよりは、和菓子屋の若旦那といった風貌のいかにも温和そうな紳士である。
 店長は公隆さんから事情を聴き取ると、二人とも罪には問わずという結論をだした。
 俺と公隆さんは、ほっと胸をなで下ろした。
 オタク君も警察に突き出されないことを聞くと、緊張の糸が切れたのか涙ぐんでいる。田村のお婆さんは状況を把握できずに、相変わらずポカンとしたままだ。
 二人は店長からお買い物券を渡され事務所をあとにした。
 何も「盗人に追い銭」をやることはないだろう、と思ったが口にはださないでおいた。
 二人の処遇がひと段落したところで、俺は口を開いた。
 実は俺にも、少々頭の痛い問題が発生しているのだ。
 さっきの捕り物の最中に、俺とオタク君は駐輪場の自転車を何台かなぎ倒してしまっていた。お客さんの自転車だけであれば店の方が無償で修理などをするのだろうが、その中に俺の自慢の愛車も入っているのだ。
 事務所に入る前にちらっと見たところ、フロントフォークとホイールが曲がっていたのに気がついた。その修理代だけで、普通の自転車が何台か買える金額になりそうだ。
 俺は公隆さんの顔色を伺いながら、思い切って店長にそのことをいってみた。
 すると温和な店長は、「修理代は店の方で持つから、心配しないでいいよ」と笑顔でいってくれた。
 それでも金額が金額なだけに、俺は公隆さんに「いいのかな?」という気持ちをこめて視線を送った。
 するとそれを察したらしく、公隆さんは店長の耳もとで短く何かを話した。
「えっ、そんなにするのか?」
 きっと自転車本体の値段を教えたのだろう。さっきまでの温和な笑顔が一瞬のうちに掻き消え、店長は眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。
 やはりダメか——。
 半分諦めかけていた俺の顔を見て、店長は笑顔に戻った。
「心配しなくていいよ。店で持つといってしまった以上は、ちゃんと責任はとるよ」
「ありがとございます!」
 俺が礼をいうと、店長は「気にしないでいいよ」と笑いながら事務所を出ていった。
「稟議書、通るかな?」と、ぼそっと言い残して——。
 いずれにしろこれで我が愛車も修理の心配がなくなったし、万事めでたしというところだ。
「よかったね!」
 安心したところで、薬を塗り終えた裕子が俺の頬にキスをしてくれた。
 俺はつい嬉しくなって彼女の肩を抱き寄せ、今度は俺が裕子の頬にキスをした。
「やだ、皆が見てるじゃない」
 裕子の言葉ではっと我に帰った。つい舞い上がってしまい、まだ事務所の中に大勢いるのをすっかり忘れていた。
「おいおい」という公隆さんの言葉で、事務所の中に笑いが広がった。
「注意力が足りないところはやっぱり、迷走する方の”迷探偵”ね」
 裕子は照れ隠しなのか、そういって俺の足を軽く叩いた。
「痛っ!」
 裕子の手は、擦りむいてさっき薬を塗ったばかりの傷を直撃した。
 痛みにもんどりうつ俺にはおかまいなく、事務所は笑いの渦となった。

 長いようで短かった夏休みも終わり、学校と家との往復に明け暮れるだけの、退屈で普通の生活に戻った。
 夏休み中にショッピングセンターで万引きの現行犯で捕まえたオタクの柴崎は、警察沙汰にもならず、ましてや俺の口が硬いことも手伝って、通常通りに登校していた。たまに廊下ですれ違うときなどは、彼は気まずいような顔をしながら目だけで挨拶をしてくる。俺もつられて目だけでそれに応える。それを見ていた裕子と絵美が、何とも秘密裏な感じの俺たちをクスクスと笑っているが、彼女たちも夏休みの大捕り物を吹聴するような無粋なことは控えてくれている。
 ただ直接の関係はなくても、以外なところで万引きが発覚してしまった田村のお婆さんのその後が気になるところだ。次の日曜にでも裕子と田村宅へ様子を見に行ってみるか。

                                     (了)

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